2011年8月31日水曜日

残暑お見舞い


真夏かと思えば大雨、かと思えばまた暑くなったりして、不可解な天気が続くきょうこのごろ、みなさま体調はいかがでしょうか。

8月最後の今週は、このブログも一回夏休みをいただきます。来週からは、また濃ゆ〜〜いお知らせ続々ですので、ご期待ください!

というわけで今週は、ご挨拶がわりにただいま編集中の『東京スナック飲みある記〜〜ママさんボトル入ります!』から、23区のスナック・スライドショー・・じゃないですけど、サワリをほんの少しだけ。

先月までこのブログで連載していたので、読んでくれた方も多いでしょうが、いま分厚い単行本にすべく鋭意編集作業の真っ最中。11月初旬には書店に並ぶ予定です。東京の23区、それぞれに一ヶ所ずつスナック街を訪ね歩き、歴史なども押さえながら、特選スナックを紹介するこの一冊。全部で70軒近いスナックが登場します。夜の探検のお供に、ぜひどうぞ。こんなガイドブック、ほかにぜったいありませんから! 

しかしこうして並べてみると、ほんとにスナックっていろいろ。カウンターと酒とカラオケだけあれば成立する商売なのに、ママやマスターの顔の数だけ、店のキャラも千変万化なんですねえ。

墨田区押上『和風スナック 宴』

目黒区学芸大学『スナックバー 司』

大田区西蒲田『スナック かな』

江東区亀戸『小さなスナック 由美』

杉並区高円寺『スナック すずらん』

世田谷区三軒茶屋『オスカー』

江戸川区南小岩『スナック マキ』

港区新橋『パブ コダマ』

千代田区神田『スナック るり』

中央区人形町『カウンタースナック よりみち』

新宿区西新宿『スナック 麻里』

北区赤羽『スナック ノエビア』

台東区浅草『スナック ひまわり』

板橋区大山『しらべ』

豊島区池袋『パブ&スナック 純』

中野区中野『ELVISと素敵な昭和歌謡曲』

文京区湯島『スナック もしも・・』

荒川区西日暮里『スナック ピース』

渋谷区百軒店『みにぱぶ ながさき』

品川区武蔵小山『パブスナック リリー』

 足立区北千住『居酒屋 だるまや』

葛飾区立石『BAR ニュー姫』

練馬区練馬『シャルマン』

シャチョさん、買ってくださいネ♡♡♡

2011年8月24日水曜日

『@DOMMUNE』発売!

というわけで、ちょうどタイミングよく発売された『@DOMMUNE』。本書とは別に、配信記録をまとめた『DOMMUNEオフィシャルガイドブック』が、やはり今月発売だそうですが、こちらはDOMMUNEとはなにか、そしてどうしてこんな無謀なプロジェクトに命を賭けているのかを、主宰者(というよりMC=マスター・オヴ・セレモニーですね)の宇川直宏くんが語り、書き下ろした力作です。

DOMMUNENにいままで登場してきたアーティストたちとの対話形式をメインに、宇川くん自身がひもといていくDOMMUNEの理念は明快にしてラディカルですし、巻末に置かれた本人の回顧録とでも言うべき、クレイジーなトリップの軌跡は感動的ですらあります。

『スナック芸術丸』の担当者として、僕も「宇川直宏・伊藤ガビン・都築響一」の鼎談というかたちで、本書に少しだけ参加させてもらってます。「DOMMUNEとは滅びゆく活字メディアに対するレクイエムである」という宇川くんの言葉に、DOMMUNEを観てくれているひとなら深く共感できるはず。

活字メディアどころか、民放テレビ局が軒並み滅びはじめている現在、たった数人のシロウトが手作りで、採算度外視でつくりあげた奇跡のメディア。これを読んでくれれば、今夜からのDOMMUNEがいっそう楽しく観られるのはもちろんですが、これを読んで刺激されて、日本のいろんなところでDOMMUNEのようなマイクロメディアを立ち上げようという、無謀なチャレンジャーがどんどん出てきたら、それが宇川くんにとって、そして参加させてもらった僕らにとっても、考えうる最高のリアクションであるにちがいありません。

ART iT ニッポン国デザイン村:コスプレの闇

いまや国際語となった「コスプレ」。ディズニーやマーベルコミックスが世界の漫画・アニメ界を支配していた時代には、ほとんど存在しなかった「お気に入りのキャラクターになりきる」という作品とのつきあいかた――だってミッキーマウスやドナルドダックやスーパーマンのコスプレが、どれほどポピュラーだったろうか――を生み出したのは、日本の漫画やアニメが、アメリカン・コミックスとはまったく別種の力学を持ってきたからではないか。


コスプレと言われて僕らが思い浮かべるのは、イベント会場やスタジオで撮影された彼ら”レイヤー”さんたちの、いわば舞台上の晴れ姿である。お気に入りのゲームやアニメのキャラに身をやつし、ハレの場で、つかのまの異人格にひたる彼ら。カメラ小僧に取り囲まれてポーズを取っているときの、その近寄りがたいオーラと、お話聞かせてくださいと頼んだときの、すごくふつうの女の子や男の子っぽいしゃべりかた。その強烈なギャップがおもしろくて、僕は2007年から『プリンツ21』という小さな美術雑誌で、レイヤーさんの日常生活を覗き見させてもらう企画を続けている・・・。



今月の『ニッポン国デザイン村』は、4年間を過ぎていまも続行中のコスプレイヤーお宅訪問企画から見えてくる、サバービア・カルチャーとしてのコスプレ考察。そして今号からは、大竹伸朗くんの夢日記『夢宙』も始まってます。あわせてお読みください!


東京右半分:和柄の聖地・亀有を訪ねて

たとえばジーンズの太股に桜吹雪が散っていたり、アロハシャツにドクロやコウモリが躍っていたり、Tシャツの背中で見返り美人が微笑んでいたり……いわゆる「和柄」というジャンルが、ストリート・ファッションにある。



表参道や代官山のハイソなブティックでは見かけないが、日本中の男の子たちや女の子たち、特に男の子たちが通う街場の店ではかならず、誇らしげにショーウィンドウに飾られている、そういうストリート・ファッションの世界では過去10年近くにわたって、和柄が変わらぬ人気を保ちつづけているのだが、そんな和柄の、おそらく日本でいちばんコアな品揃えを誇っているショップが、実は亀有にあることをご存知だろうか。


ほとんどの日本人にとっては『こち亀』以外にはなんのイメージも浮かばないであろう亀有駅に降り立ち、徒歩5分。環状七号線沿いの、およそ「ファッショナブル」という言葉からはかけ離れたグレーな街区に、突如現れる「JEANS RODEO CASUAL」というアメリカン・フレイバーたっぷりのネオンサイン。ここが和柄の総本山『RODEO BROS』なのだ。

http://www.chikumashobo.co.jp/blog/new_chikuma_tuzuki/
(来週は筑摩書房のサイトが夏休みのため、『東京右半分』の更新もお休みです)

松本国三 X 大江正彦展 @ 大阪・天音堂ギャラリー

この23日からたった6日間ですが(短すぎ!)、大阪の小さなギャラリーで、小さな、でもすごく濃密な展覧会が開かれています。



前に連載などで取り上げたことがあるので、お読みいただいた方もいらっしゃるかもしれませんが、大阪在住のふたりのアウトサイダー・アーティスト/書家である、松本国三と大江正彦。ふだんは大阪・平野の「アトリエひこ」を拠点に制作活動を続けながら、最近では日本国内にとどまらず海外での展覧会に参加する機会も増えている、注目の作家です。

松本国三(1962年生れ)と大江正彦(1965年生れ)は、20代の頃より身の回りにある紙類に書く・描くことを毎日続けている。
 松本は壁の日めくりやカレンダー、メモ用紙にひたすら文字を書き連ね、大江は新聞紙を色や線で埋め尽くし、らくがき帳には動物や間取り図を執拗に描く。二人とも家族が寝静まった後、夜な夜な独り書き(描き)耽り、昼夜逆転することもしばしばである。
 松本の日めくりカレンダーからは、歌舞伎の演目・演歌歌手のCD・ジャニーズ・ディズニーのキャラクター・絶滅危惧にある動物などが読み取れる。繰り返し書かれるうちに文字は省略・分解・デフォルメされ、重なり合い、紙面のあちこちにうねりが生じる。
 一方、大江は新聞紙を茶の間からこっそり自室に持ち込む。不透明マーカーで、段組みを美しく色分けして見開き全紙を塗り込んだり、活字を一文字ずつボールペンによる線描でびっしり埋めつくしたりに没頭し、次第に記事は消滅してゆく。
 この20余年間、日々紡ぎだされてきた膨大な量の紙を前にしたとき、彼らはやはり、何かを担っているのではないかとおもう。ここから醸し出されている力強い造形性と一途で痛切なものは何なのだろう。日めくりや新聞紙といった、否応なく新しい一日の到来を告げる紙面に書き(描き)記す毎日のこの行為を何と呼べばいいのだろう。 日課でもなく、 勤行でもない。いくらか儀式めいてはいるがいたって平然と、情熱的に繰り広げられるのだ、今日も。
松本は書き終えた日めくりを破ってゴミ箱へ、大江は新聞を洋服ダンスの引き出しへ突っこんでいたが、どちらも母親によって拾われ大切に保管されてきた。

アトリエひこ 石崎史子(ギャラリー・サイトより)

アウトサイダー・アート・ファンのあいだでは名を知られながら、なかなかまとめて作品を見られる機会がなかったふたり。このチャンスに、ぜひご覧ください。そして、画面からみなぎるパワーと、同時に存在する静かな美しさに打ちのめされてください。

大江正彦作品集『ZOO-GRAPHIC』より

松本国三『般若心経』

天音堂(あまねどう)ギャラリー http://amanedo.exblog.jp/
なんば駅から徒歩5分ほどだそうです

2011年8月18日木曜日

今週金曜日、FREEDOMMUNE !


もうご存じの方も多いと思いますが、僕もだいたい月イチのペースでトーク番組を持たせてもらってるインターネット・ライブストリーミング・プログラム『DOMMUNE』が、来る19日の金曜日夕方5時から、翌朝6時まで、川崎市東扇島東公園にて、驚異のフリー・フェスティバルを敢行します! フジロックをはじめ、いまや数えきれないほどの夏フェスが開催されてますが、これほど豪華で、これほど太っ腹で、これほど狂ったフェスティバルはほかにぜったいないはず!

タイムテーブルをチェックしていただければわかるとおり、Gabriel Ananda、Jeff Mills、Ken Ishiiといった世界的なDJをはじめ、ボアダムズのEYE、神聖かまってちゃん、非常階段、灰野敬二、小室哲哉! さらに夜明けと同期して行われる冨田勲!まで、奇跡的なアーティストたちが終結。トークのステージでも中沢新一、坂口恭平、快楽亭ブラック、康芳夫、安部譲二! などなど、とてつもない顔ぶれがかわるがわる登場します。


で、『スナック芸術丸』も、もちろん登場。画家・大竹伸朗をゲストに迎えて、夜11時半から1時まで、いろいろじっくりライブで語らせてもらう予定ですので、乞うご期待。

これだけのメンツで、しかも入場料タダ!という驚異のイベントだけに、入場券は当然あっというまに予約満杯。しかしいつものDOMMIUNEのサイトのほかに、今回からスタートする高画質ライブ・ストリーミング・サイト『ZOMMUNE』でも無料配信されるそう。とんでもないプロジェクトですね。チケットをゲットできなかったみなさまは、ぜひストリーミングでご覧ください。そして幸運にもチケットを入手できたみなさまには、ぜひステージでお目にかかれますよう!

DOMMUNE 公式サイト:

ZOMMUNE スタート・サイト:

東京右半分:浅草の千の眼

今週土曜日(8月13日)から恵比寿の東京都写真美術館で、鬼海弘雄の写真展『東京ポートレイト』が始まる。


鬼海弘雄は浅草のオフィシャル・フォトグラファーだ。渡辺克己が新宿のオフィシャル・フォトグラファーであったように。
 1945(昭和20)年、山形県寒河江市に生まれた鬼海弘雄は1973(昭和48)年から、もう38年間も浅草を撮ってきた。1941(昭和16)年、岩手県盛岡市に生まれた同じ東北人の渡辺克己が、新宿を題材にした作品を初めて発表したのも1973年。ふたりともモノクロームのポートレイトにこだわりつづけ、ふたりとも青年時代のインドへの旅が、写真家として自立するための契機となり……そして渡辺克己は2006(平成18)年に亡くなり、鬼海弘雄はまだ浅草を撮り続けている。
 新宿と浅草という、東京のふたつの極を同時代に歩いた、東北生まれのふたりの写真家。でもふたりの共通点の多さと同じくらい、写真集から立ち現れるふたりの眼差しの違いもまた大きい。「風俗」にこだわりつつ、そこから透けてくる人間性をつかもうとした渡辺克己と、「風俗」を超えて存在する人間性をまっすぐにつかもうとする鬼海弘雄。それはもしかしたら、そのまま新宿と浅草という土地の違いでもあるのだろうか。
 今回の「東京右半分」はいつもと少し趣向を変えて、鬼海弘雄が捉えてきた浅草の顔を紹介しながら、作家本人に写真という磁力、浅草という磁場を語ってもらうことにしよう。

 終戦の年に山形県寒河江市に生まれた鬼海弘雄。蕎麦と温泉で名高い、のどかな農村地帯に育ち、高校卒業後は山形県職員になるが、1年で辞職。東京に出て、職工、運転手、マグロ漁船乗組員など転々と職を変えながら写真の道を目指し、1987(昭和62)年に初写真集『王たちの肖像??浅草寺境内』(矢立出版)を出版する——。





鬼海弘雄写真展『東京ポートレイト』
2011年8月13日(土)〜10月2日(日)
東京都写真美術館
(東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内)地下1階展示室
(カタログ、すごく充実してお買い得なので、売りきれないうちに要チェック!)


『監獄ラッパー B.I.G. JOE』発売!

『新潮』に連載中の『夜露死苦現代詩2.0』でさきごろ取り上げた北海道在住のラッパー、B.I.G. JOEの自伝が発売されることになりました!(8月25日発売予定)

連載を読んでいただいた方はおわかりかと思いますが、B.I.G. JOEは90年代を通して日本語ヒップホップの先駆者として北海道のシーンを牽引する存在でありながら、2003年にヘロイン密輸容疑で逮捕、オーストラリアで6年間の刑務所生活を送ることになります。

自伝ではその過酷な刑務所生活の中で、いかに自分がヒップホップを再発見し、獄中からひそかにカセットテープを送ったり、電話を通してラップしながら、制作活動を持続させていったか、そしてそういう前向きな姿勢を保ちつづけることによって、いかに自分がクリーンな存在としてカムバックを果たすようになったのかが、素直な筆致で描かれています。

囚人番号345506、南の果ての記憶

2005年、奇妙な音声で録音された「Lost Dope」という曲が、日本のヒップホップ・シーンに衝撃を与えた。声の主は札幌出身のラッパーB.I.G. JOE。ヘロイン密輸容疑で逮捕され、オーストラリアの刑務所に服役中だった彼は、日本への国際電話を利用し、そのラップを吹き込んだのだ……。本書は、異国の獄中で過ごした日々を綴った、B.I.G. JOE 6年間の手記である。事件の顛末、裁判の行方、塀のなかの過酷な生活、そして、前向きに生きる力を与えてくれたラップという表現手段。収監中の身でありながら日本で発売された数々の作品は、どのように制作されたのか? 長い刑期のなかで彼は何を感じ、何を思ったのか? その全貌が、ついに明かされる。

【CONTENTS】
■プロローグ
■密輸計画
■無言の取調室
■幻覚と選択
■裁判
■判決=Not完結
■愛と孤独と決別と
■新天地
■ジェイルで生きるための10の戒め
■グローバルな食生活
■ロスト・ドープ
■マッチョ・ワールド
■スタジオのある刑務所
■監獄ラッパー誕生
■母の面影
■ザ・犯罪学
■塀のなかの住人たち
■ドラッグ・ビジネス
■ミッドナイト・エクスプレス
■LIKE A 修道院
■生きることと創造すること
■6年
■フリーダム・フライト
■再会
■監獄ラッパー・イズ・バック
■解説:二木 信
                        (出版社サイトより)

当然ながら、連載記事の中では語られることのなかった、刑務所生活のディテールにも大きな割合がさかれ、極限状態の中でクリエイティブでいつづけることが、精神を正常に保つ上でいかに重要かが、行間からひしひしと伝わってきます。

なお、『新潮』の連載にあわせてつくられた特設サイトでは、まだ連載記事の抜粋と、B.I.G. JOEの過去の音源が4曲もフルで聴けるようになっていますので、本書とあわせてチェックしていただけたら幸いです。


夜露死苦現代詩2.0 特設サイト B.I.G. JOE:

2011年8月11日木曜日

夜露死苦現代詩2.0 田我流


いま、もっとも生きのいい、リアルな言葉を紡ぎ出す、ラッパーという名前の「ストリートの詩人たち」を探し求める連載。前回ご紹介した鬼一家の「鬼」に続いて、今回は山梨からstillichimiya(スティルイチミヤ)の田我流(でんがりゅう)。


都会のファッショナブルを目指すのでもなく、ギャングスタに憧れたワルを気取るのでもなく、地方に生まれ育ち、地方に根を下ろして、自分のフィールドで自分の歌を歌っていくだけの生活。そのシンプルさこそが、かけがえのない「リアル」を生むのだと、この29歳の青年は教えてくれます。

映画『サウダーヂ』の主役も好演して、ただいま絶好調の田我流。いまごろは映画祭参加のため、スイス・ロカルノに飛んでいるはず。そして例によって本連載のための特設サイトでは、記事の抜粋が読めるほか、『明けない夜』『138』『JUST』『三文RAPPER』の4曲がフルに聴けます! 毎度お願いしてますが、ぜひ音源を聴きながら、記事を読んでいただきますよう。

夜露死苦現代詩・特設サイト http://www.shinchosha.co.jp/shincho/4649/

ROADSIDE FASHION最終回 シャッター商店街の男伊達

新潟県南魚沼郡五日市・・上越新幹線越後湯沢駅から車で約30分、駅前土産物屋街を過ぎ、空室だらけのリゾートマンションが林立するエリアを過ぎ、見渡すかぎりの田んぼのなかを走っていくと、そこはどこにでもありそうな田舎町の、どこにでもありそうなシャッター商店街だった。

「魚沼」といえばコシヒカリ。すぐお隣の五日町には「魚沼コシヒカリ発祥の地」の記念碑まで立っているものの、いくらお米がおいしいとて、田んぼまで見に来る観光客がいるはずもなく、ここもまた気だるさと侘びしさだけが漂うスモールタウンなのだ・・が、しかし! 車を降りてみると、シャッター商店街の一角に異様な看板が。店の前にデカデカと掲げられた「悪ガキ製作所」の文字。ご丁寧に真っ赤なパトランプまで取り付けられて、夜間はさらに異様な押し出しであるにちがいない。そしてガラス戸には、どこかで見たような金色の菱形を組み合わせたマーク・・ここって、シロウトさんのお店ですか?


魚沼郡今町に店を構える『BIRTH JAPAN』はブランド系でもなければ、ワル系メンズマガジンに出てくるオラオラ系でもない、「真の不良」に来てもらいたいファッションだけを追求する、あまりにユニークなメンズショップである。



そしてこの1月から『SENSE』誌上で始まったこの連載、なんと今回で突然の最終回です! 小沢仁志さんから始まって、イースタンユースや玉袋筋太郎さんもモデルになってくれて、作っていてすごく楽しかったこの企画。ほんとは1年間続くはずだったんですが、打ち切りの理由は・・・そう、広告主さまからのクレームなんですねぇ。またかよ!(笑) 

実名を挙げちゃうと、編集部が嫌がらせされそうなので言いませんが、複数の某有名ブランドの方々が、「広告出してやるけど、ああいうページはうちの商品にふさわしくないから」と、打ち切りを要求してきたそう。『SENSE』を出している出版社は、これ1誌しかやってない小さな会社なので、そりゃそんなこと言われたら、従わざるを得ないですよね。

しかしハイファッションのやつらっていうのは、自分たちがストリートからデザインを頂戴してるくせして、なんとかストリートとは一線を画したレベルに自分たちを置こうとする。イヤですねえ。南魚沼郡のはずれで、周囲の冷たい目を「批判を褒め言葉だと思ってますから」と意に介さず、信じるオトコ道をひた走る『BIRTH JAPAN』を見習ってほしいものです。

そういえば、ずいぶん前に『着倒れ方丈記』という連載を、いまはなき『流行通信』で連載していたときも(それはのちに『HAPPY VICTIMS』という写真集になりました)、ずいぶんたくさんのブランドから、抗議やお叱りをいただきました。

見てくれたひとはおわかりでしょう。それはそのブランドが好きで好きでたまらないひとたちが、コツコツ買い集めたコレクションを見せてもらおうという企画だったのですが、取り上げたブランドからは「そんなの聞いてない」だの「承認してない」だの、「自分たちのブランドイメージにそぐわない」だの、お客さんに対してものすごく失礼な言いぐさを、しょっちゅう編集部にぶつけてきたものです。あるときは書面で抗議が来たり、「訴えるから」とまで言われたこともありますが、そういうブランドの、ヨーロッパにいるデザイナーがたまたま来日して、たまたま記事を見たりすると、たいていはすごく気に入ってくれるわけです。そうすると、いきなり態度一変。「こんどオープンする東京の旗艦店の写真を撮っていただきたいと、○○○(デザイナーの名前)が申しております」なんて依頼が来たりして。あまりに見事な手のひら返しに笑っちゃったことを思い出しました。かっこいいことって、なんてかっこわるいんでしょう、ほんとに。

『ROADSIDE FASHION』は、いま完全に停滞しきってると思われるハイファッションの世界に対する、僕なりの刺激剤というか提案だと思っているので、いずれどこか別の場所で再開したいと考えています。あまり時間をおかないうちになんとか復活させますので、しばらくお待ちください!



東京右半分:『そなエリア東京』で首都直下地震にこころの準備を・・


ゆりかもめ、あるいはりんかい線で有明方面に向かう。見本市でおなじみの東京ビッグサイトと、有明テニスの森に挟まれた街区に、東京臨海広域防災公園という施設があることを知るひとはどれくらいいるだろう。そこが、面積13ヘクタール以上におよぶエリアで、しかもいざ首都直下型地震が起きた場合には、 緊急災害現地対策本部となり、首相官邸とホットラインで結ばれたオペレーションルームが置かれる、いわば大地震に襲われた東京を救う最前線の基地となるこ とを、どれだけのひとが知っているだろう。

去年7月にオープンしたばかりの『そなエリア東京』は、その現地対策本部用の建物を使って、都民の防災意識を高めてもらおうという”体験型防災教育ミュージアム”である。





みどり・みき@なかの小劇場

8月5日、なかの小劇場において開催された、インディーズ演歌歌手たちの競演コンサート。『演歌よ今夜も有難う』に登場してくれた「エノケソ」さんなど、おなじみの顔ぶれが揃いましたが、なかでも表紙を飾ってくれた「みどり・みき」さんの絶唱が、あまりにすさまじかったので、youtubeにアップしました! ふだんにも増しての咆哮に、満員の観客も驚愕、騒然。このリンクからのみ視聴可能です。これぞ演歌という名のソウル・ミュージックかも! 



書中に登場する17人、すべての歌手の音源はこちらで視聴可能!
http://blog.heibonsha.co.jp/enka/



東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りしてきましたが、とうとう今夜が23区目の最終回。よろしくお付き合いを!

第23夜:千代田区・神田駅西口飲食街

85万人の昼間人口と、4万5000人の夜間人口がいると言われる千代田区。昼間の人口が夜間、つまり地元に暮らす人口の約20倍。中央区の6倍強、港区の5倍弱を引き離す、東京随一の(ということはおそらく日本随一の)「昼間は過密、夜は過疎」地域である(ちなみに東京23区全体の昼夜間人口比は1.3倍ほど)。

丸の内があり、霞ヶ関があり、半蔵門、麹町があり、九段があり、そして皇居があり・・こんな超都心にスナック街なんてあるんかと疑問に思う方も多かろうが、あるんですね、これが一ヶ所だけ。JR神田駅周辺の飲食街がその、「千代田区唯一のスナック密集地」なのだ。

戦時中の空襲によって神田一帯も焼け野原となった。写真は終戦の翌年、
1946(昭和21)年9月15日に撮影された神田鎌倉町(現在の内神田
1丁目〜3丁目あたり)の様子。「アメリカさんありがとう」の山車は、
当時パン屋を営んでいた柴田氏所有のもの。ジープの向こうの
ビルは焼夷弾を浴びて焼けた旧楓ビル(内神田2-3-6)
写真提供/楓ビル

上の写真から12年後、1958(昭和33)年にほぼ同じアングルから
撮影された鎌倉町大神輿小神輿渡御の様子で、神龍小学校
(現・千代田区立スポーツセンター)前の外堀通りを鎌倉橋交差点から
龍閑橋方向に向かっている。写真中央のテントが張り出した3階建てのビルが、
焼けビルから改修された旧楓ビル。1988(昭和63)年の建て替えまで実存していた
写真提供/楓ビル

すぐとなりは東京駅だし、秋葉原駅、地下鉄の東日本橋駅や小伝馬町駅、大手町駅、淡路町駅なども徒歩圏内。しかし通勤通学に神田駅を利用している多くの人間にとって、神田駅周辺は「チェーン居酒屋やディスカウントショップやマッサージ屋ばかりが目立つ、地味な街」なのではないか。おしゃれに生まれ変わっている東京駅・丸の内エリアと、世界的なブランドとなった秋葉原に挟まれ、かといって新橋のようにサラリーマン天国としてアイデンティティを見いだすこともないまま、「神田」という地名のイメージは、残念ながら低下するいっぽうである。かつては「芝で生まれて神田で育ち 今じゃ火消しの 纏(まとい)持ち」と端唄(はうた)に歌われたように、神田と言えば下町文化の象徴であったのに。

オフィスビルや学校ビルの進出による昼間人口の増加にともない、
神田地区の商店街は小売商店街から飲食街への性格を強めていったという。
写真は1979(昭和54)年、神田駅西口の商店街の様子
写真提供/千代田区広報広聴課

2011(平成23)年現在の神田駅西口商店街入口あたり

そもそも江戸幕府開府とともに、職人街として成立した神田。住所改正前には鍋町、紺屋町、蠟燭町、堅大工町、塗師(ぬし)町といった、その職種を連想させる小さな職人町がいくつもあったことからも、神田という街の成り立ちがよくわかる。今回の取材で神田の昔話をお聞きした神田生まれの神田育ち、現在は家具・インテリア・雑貨を取り扱う株式会社楓屋・専務取締役の田熊清徳さんによれば——

うちのエリアも以前は鎌倉町という名で、材木商の町と言われてました。うちはもともと家具屋ですが、家具の職人がたくさん住み込んでいましたね。そうすると賄いのお手伝いさんもいますから、家族の4倍ぐらいの人数になります。1軒だけでそれだけの住民がいることになるんですね。各町会(ブロック)ごとに1軒は銭湯もありましたから、神田駅周辺だけで(銭湯が)10軒はあったんですよ。

それだけ働き、住み暮らす人々がいれば、商店街もにぎやかになるわけで、かつては生鮮食品や総菜屋、呉服屋、生活雑貨の店などがずらりと並ぶ、いかにも下町らしい商店街が駅前に広がっていた。

西口のガード下に年季の入った居酒屋が並ぶ神田小路。
実はどの店も2階建てで、1階の天井の一部に穴が空いていて、
そこからハシゴで2階に上がれる。いまは荷物置き場と
なっている店がほとんどだが、昔はそこが住まいになっていたという

終戦直後の神田駅前は、例によって一大闇市エリアとなったようだが、1949(昭和24)年の露店撤去令によって、露店はガード下や共同長屋の店舗に移転、それが今日の神田駅周辺の飲食街の原型となっている(昭和25年の神田駅付近のマーケット地図を見ると、「バー」「のみや」「とんかつ」と記された店舗がひしめいているのがわかる)。

「一時期の神田駅周辺はキャバレーがたくさんありました」と言う田熊さんによれば、ガード下には「スター東京」(現在は「はなの舞」という居酒屋)という大きなキャバレーがあり、その周辺にも「ハリウッド」「ウルワシ」「星座」といった大小さまざまなキャバレーやクラブがあったという。「パリー」という名のキャバレーもあって、駅南口改札を出た駅前の通りは「パリー通り」と呼ばれていたそうだ。

かつてキャバレー『スター東京』があった場所も、
いまはチェーン居酒屋に

夜になるとマッサージ屋の看板も目立つ
西口商店街かいわい

駅前はガード下に飲み屋がひしめき、キャバレーやクラブの華やかなネオンが輝き、買い物客でいっぱいの商店街を抜ければ、昔ながらの下町らしい住宅や作業場が広がる・・・こんないい町ってあるだろうかと思ってしまうが、そんな神田が変わりはじめたのは、田熊さんによればもう40年ほども前からだった——

戦後から人口は徐々に減ってはきていて、それでも50年前ぐらいは人も多く住んでいましたが、40年前ぐらいからかな、人口がどんどんと減っていって、同時にオフィス街になっていきました。神田は場所的に大手町に接していることと固定資産税もあって、1階を自分の店舗にして貸しビル業を副業としてやるようになるんですね。しかし店舗にしても、人口が減ると住民相手の商売が成り立たなくなりますから。じゃあ、街の形態にあったところに貸すとなると飲食店になる。
昼間の人口が増えてくると、やっぱり商売も飲食関係になりますから、食べ物屋や飲み屋の街になってくる。でも家賃は高いので、個人経営の飲食店がやっていくにはなかなか難しい。どうしても大手資本による飲食店が増えてくるんですね。もちろん、そういうなかでがんばってる個人商店さんも、まだまだあるんですけど。

駅北口を出て神田警察通りの南側にある、路地が入り組んだ一角には、
エレベーターがないビルや、古い飲食店の店舗が路地の両脇に並び、
わずかに往年の飲み屋街の雰囲気を残している



駅前にスーパーのひとつもないから、食料品を買うにも日本橋のデパートまで行かなくてはならないなど、住む人間にとってはかなり暮らしにくい街になってしまった神田駅周辺。西口のガード下にある「神田小路」、戦後に満州から引き揚げてきた浅丘ルリ子が育ったという、南口からすぐの「今川小路」・・神田駅周辺には昭和の雰囲気をそのまま伝える、タイムトンネルのような区画が少しだけ残っているが、それもいまや風前の灯火である。

現にJR東日本は上野駅が起点となっている東北本線を東京駅まで乗り入れる「東北縦貫線」という新路線を建設中で、そのため神田駅エリアでは東北新幹線の上に高架線を乗せる「2階建て」工事が進行している。同時に、いま御徒町で進行中の再開発のように、ガード下にひしめく小料理屋を一掃して、遊歩道にしようという計画が進んでいるとも聞く。

駅南口を東京駅方面に少し歩いたガード下が今川小路。
満州から引き揚げてきた浅丘ルリ子が、このあたりで育った。
田熊さんいわく、本人も「神田が第二の故郷」と言っているとか


繁華街の駅ビルがぜんぶアトレみたいになって、ガード下が御徒町の「2k540」みたいなデザインショップやおしゃれカフェで埋まったら、東京はどれだけつまらない場所になってしまうことだろう。

今年の2月から半年あまりにわたったスナック街飲み歩きの旅は、思い返せば「再開発」という名の文化破壊行為に追いかけられ、追い立てられる旅でもあった。

汚い小路や古びた横丁が、きれいな商業ビルや”複合文化施設”に生まれ変わって、土地の価値がアップすれば、地面やビルを持ってるひとはうれしいだろうが、30年、40年とその場所でずーっと小さな商売をやってきたスナック・ママが、「お金あげるから、ここ退いてどっかで新しい店やってください」とか言われて、もういちどゼロから店をつくったりできるだろうか。酒と唄とおしゃべりの楽しみに、今夜は寂しさと憤りの苦みを少しだけ振りかけて、神田駅西口エリアの名店を飲み歩いてみよう。

そしてこの連載は10月に単行本となって発売予定です。飲み歩きのお供に、よろしかったら連れてってやってください。

今夜の1軒目は神田駅西口から歩いて3、4分。ごくふつうのオフィスビル地下で、もう30年も営業中という老舗の『スナック 和』から。

階段を降りてドアを開けると、まずカウンター、その奥にボックス席。神田の常として、お客さんはほとんどスーツやワイシャツ姿のビジネスマンだ。

商店街の奥、夜は静かなエリアにある『スナック 和』

急な階段を降りていくと、そのまま店内に至る

座り心地良さそうなスツールが高級感を演出している

場所柄、お客さんは100%近くビジネスマンだ

『スナック 和』の和子ママは、1970年代のはじめごろ(昭和40年代後半)に赤坂の高級キャバレー『ミカド』でお勤めしたのが、水商売のスタートだった。離婚後、「いまだといろんな仕事があるけれど、あのころは水商売ぐらいだから」と、生活のために選んだ職場だったが、当時の『ミカド』といえば日本一のグランドキャバレー。北海道と渋谷にあった『エンパイア』、神戸の『新世紀』といった高級キャバレーも同じ経営だった一大キャバレー・グループで、「それはもう、素晴らしい店だったわよ〜、ホステスも800人はいてね。ナンバーワン・ホステスさんなんて、一日に70もの指名が入って、回れますかって(笑)」と、思い出話が尽きない。


店の奥はゆったり寛げるソファ・エリア

今夜は常連さんから取れたてのスイカがどっさり差し入れ

店の前にはポーターがいて出迎えるんだけど、並ぶ車がロールスロイスとかキャデラックとかジャガーやポルシェとか、外車ばっかり。あのころだからソープランドじゃなくて、吉原のトルコ王って呼ばれてた社長さんの車なんて、金色のロールスロイスだったんですから!
で、ポーターに挨拶されて店に入るでしょ、その正面には棟方志功の版画が一面。左に曲がれば、兜とか置いてある、日本調のクラブっぽいムードで落ち着いた場所。右の螺旋階段に向かうと正面にはなにがあったと思う? ピカソの絵、本物よ! あと本物じゃなかったけれど、シャガールやドガの絵もあって、もう凄い美術館!
ショーは当時、はとバスの観光コースになってたぐらい。ミカドダンサーズとミカドオーケストラがいて、2階はダンスホールなんだけど、ショータイムになると真ん中がせり上がってきて、そこからゲストの歌手が出るのね。観光客は吹き抜けの3階からショーを観るわけ。で、ショーが終わったあとには、ヌード・ダンサーが乗ったゴンドラが3階からぐるーっと店内を回る。あんなすごい店がなんでなくなっちゃったのかしらねえ。


『ミカド』が終わったあとは、70年代ディスコの最盛期だっただけに、赤坂の『ムゲン』、六本木の『クレイジーホース』『リビエラ』といった店に通ったり、六本木の俳優座の近くにあった高級ゲイバーのショーを堪能したりと、「もう、最高の時代でした、いい時にいましたねぇ」と、赤坂の全盛時代を懐かしむ。「だから、こないだ久しぶりに赤坂を歩いたら、あまりも変わってて、涙ながしちゃった」。


和子ママと、『花と竜』(村田英雄)を熱唱中の常連さん

『ミカド』で稼いだ資金を元手に独立を果たした和子ママ。最初は浅草橋で店を開いたが、場所が悪いということで、2年後に神田に移転。30年前の開業当時は「キャバレーもそうだし、高級な料理屋もあったんだけど、みんななくなっちゃった。いまはキャバクラと、チェーンの居酒屋ばかりでしょ。もっと品があって、オトナの街だったんですけどね」と、少々寂しげ。それでもオープン当時から通ってきてくれる常連さんたちに支えられて、しかも女の子も常時4人ほども入れて、毎晩にぎやかに、華やかに営業中。カウンターとボックス席で15人ぐらいというサイズは、ふつうだとママと女の子ひとりぐらいで回すものだけれど、「それじゃあ、飲んでてもおもしろくないでしょ」と、さらり。でもお値段はしごくリーズナブル。大手町あたりの企業で働きまくってたら、毎晩通いたくなっちゃうオアシスです。


「もうスーツなんか作んないわよ。これだって
10年前ぐらいだもの。いまのスーツは嫌いで着られない」と、
ファッション・センスにもこだわりの和子ママ


スナック 和 千代田区内神田3-24-7 坂口ビルB1


『スナック 和』から歩いてすぐ、こちらもビルの地下にある『セブン』。懐かしげな書体の「7」という看板に惹かれて階段を降りてみれば、踊り場で等身大(?)のマリリン・モンローがお出迎え。さらに階段を降りて入店してみれば・・そこは往年の日活映画に出てきそうな、昭和そのものの懐かしく美しい小空間だった。


看板のデザインからして昭和
テイストあふれる『セブン』の外観


オフィスビルの階段とバーの階段が
左右を分ける。天国への階段はどっちだ

踊り場でスポットライトを浴びるマリリン

1961(昭和36)年5月25日開業、今年で開店50周年を迎えたという老舗の『セブン』。喜美子ママと息子の清英マスター、ママを手伝って20年以上というベテラン・ホステスのれい子さん、それに中国人の女の子もひとりいて、4人で現在は営業中。夕方5時半に開店して、11時半にはきっちり閉店というペースをずっと守っているが、夕方の早い時間からお客さんがどんどんやってきて、スタッフは4人とも毎晩大忙し。ボトルキープもなしで4000円から飲めるという低料金、しかも歌い放題、しかも手作りの付きだしがどんどん出てくるから、これは流行りますよねえ。


スナックというより、クラシカルなバーという雰囲気の店内

カウンターと椅子は、前の店から運んで
きたというだけあって、さすがの風格

カウンターの修理部分にも年季が滲み出ている

「あたしの生まれた年から(店名)つけたのよ」という喜美子ママは1932(昭和7)年、港区愛宕生まれ。結婚して子供をもうけたあと、離婚を機に1958(昭和33)年から水商売の道に入った。


最初はね、神田駅前にあったキャバレー『純情』でした。でもキャバレー本体じゃなくて、社長が趣味でやってた『フロリダ』っていうバーだったの。螺旋階段がついた、しゃれた店でね。そこで3年間お勤めしてたんですけど、初めてついたお客さんから「君ならできるから店をやってみないか」って突然言われて。奥さんがバーテンと飛び出しちゃったらしくて、閉めてる店があるからって。で、そのひとに月2万円、大家さんに家賃2万円、敷金に20万円払って、それだけでやらせてもらうことになったの。それでなきゃ、とうてい店なんか持つことなんてできませんでしたよ。


最初の店を持ったのが1961(昭和36)年、神田駅西口から本郷通りを結ぶ通りのひとつ、出世不動通りに面した店で12年間続けたあと、ビルの売却とともに現在の場所に移転した。それが1973(昭和48)年というから、この場所だけでもすでに38年間も営業していることになる。


木のパネルを張りめぐらせた壁際のボックス席

ちょうどオールドが入る容量の、特別あつらえのボトルが並ぶ

最初に自分の店を開く際に、店を貸してくれたお客さんが
贈ってくれたという絵が、50年経ったいまも壁に掛かっている

開店当時は高度経済成長期のまっただ中。喜美子ママの店も、オープン当初から大繁盛したそうだ——


もう、あのころは最高でしたね。もともとスナックじゃなくてバーだったんだけど、女の子を7、8人置いて、あたしもいつも着物でね。混んでくると、お客さんには店の階段のところや、いまもある居酒屋の寿々屋さんで待ってもらうんだけど、女の子はトイレにもろくに行けなくて膀胱炎になっちゃったり。
神田の飲み屋さんが全盛期だったころは、あたしも電車で帰ったことはなかったしねえ。タクシーで女の子を全員、家まで送ってくれて、自分だけ東京に戻ってくるお客さんもいたし。
最初はカラオケじゃなくてジュークボックスを置いてたんですけど、その売り上げだけで、旅行に行けたこともあったんですよ。グリーン車に乗ってね。旅費が足りない分を出してくれたお客さんもいて、一緒に旅行に行ったり。そんな時代もありました(笑)。


お手洗いはなんと石畳。「前は砂利が敷いてあったんですよ。
でも酔って砂利に足を取られるお客さんもいて、ケガしたら
いけないから、石畳にしたんです。でもトイレは、お客さんには
しゃれてるって評判がいいんですよ。だから本当は砂利の
ままにしたかったんだけどね」とママ

毎日、ママが用意してくれる充実の付きだし。
会社から直行のお客さんには、「まだ食べてないの?」と
ひと言かけてくれる心遣いがうれしい

高度経済成長からバブル崩壊まで、神田の街で企業戦士たちにずーっと付き合ってきた喜美子ママ。「でも、そういう(よかった)時代を引きずっていたら、いまは商売はできないですね」ときっぱり。バー時代から「だれでも気軽に飲める店にしようと」、低料金で楽しんでもらう営業姿勢をキープしてきた——


神田はサラリーマンの街でしょ。ひと晩に幾組かお客さんが来てくれればいいっていう商売の仕方はしたくなかったのね。そのかわり、たくさんお客さんが来てくれないと商売にならないんだけど(笑)。だからボトルも、前はキープボトル制にしてたんだけど、ボトル1本分のお金払うより、ハウスボトルを飲んでもらえばいいかなと思って、オールドがちょうど1本分入るガラスの容器を作ってもらったんですよ。


『セブン』はまた、歌上手が集まる店でもある。お客さんが曲を選びやすいように、歌手別、デュエット用の人気曲が列記された、手作りカードが用意されているし、各テーブルにはリクエスト用のメモとペンが備え付けてある。カラオケ主体のお客さんが多い店で見かけるシステムだが、リモコンでお客さんがやたらと曲を予約してしまわないための工夫だ。


ものすごく年季の入った、手書きのカラオケ・リスト。
歌手別、お客さん別など、いろんなセットが用意されている

「カードは店にしてみれば、楽でいいんですよ。いつも
来るお客さんもそうだけど、なにを歌おうかなって考えてる
お客さんにも、とりあえず参考までにどうぞって感じでね」

カラオケ入れすぎ防止のため、リモコンにかわって
テーブルごとに置かれたリクエスト記入セット

ママは着物が大好き、かつては一年中着物姿で接客していたが、
ゴルフを始めたのを契機に、着替える手間もあって洋服で
接客するように。ちなみにゴルフを始めた間もないころ、
1990(平成2)年にホールインワンを達成している

1932(昭和7)年生まれという年齢が信じられない、
若々しさあふれた喜美子ママと、ベテラン・ホステスのれい子さん(カウンター)。
ちなみにママの健康法は「豚肉と青魚は順繰りで毎日食べますね。
そして食べたあとは必ず、お酢を水で割って飲んで、体のなかの
脂を流すんです。これをみんなにも勧めているんですよ」

ママを手伝うようになって、すでに35年という
息子の清英マスターと、喜美子ママ

最初に『セブン』に行ったときのこと。店内はすでにほぼ満席状態だったが、ほとんどのお客さんが帽子を被って飲んだり歌ったりしているのに驚いていると、ママさんに「あんたたちも被りな」とカウボーイハットみたいなのを渡されて、さらに驚いた。聞いてみたら帽子はママさんのコレクションだそうで、「最初は遊びで買ったんだけど、お客さんが喜んでくれるから、集めるようになったの」。そんなアットホームな雰囲気で、こんなに低料金で、しかも半世紀の歴史があって。しかもネットとかにはまったく紹介されずに。スナックって、ほんとに入ってみなくちゃわからないですねえ。




セブン 千代田区内神田3-10-6


『和』も『セブン』も神田きっての老舗スナックだが、神田駅ガード下の奥まった一角にある『スナック るり』は、その両店をさらに上回る1947(昭和22)年開店、今年で創業64年!という歴史的な名店である。そしてガード下の薄暗い通路を分け入り、通路を隔てて営業する『次郎長寿司』のおやじさんと客の視線を浴びながら入店しなくてはならないという、そのアプローチからしてスナック上級者でなくてはなかなかドアを押せない、スナック界の高峰でもある。


西口ガード下、2階にカラオケボックスが入る一角に
『スナック るり』へのエントランスがある

「呑みネイ 喰いネイ」の次郎長寿司と並んで、
「此の奥→」にあるのが『るり』。この通路を
躊躇なく入っていけるのは、かなりの上級者だ

通りに面したガード下の入口を入ると、細い通路の片側に寿司屋があり、反対側にスナックがある。次郎長寿司の大将・梶山健一さんは『スナック るり』のさちこママのご主人。そしてご主人の寿司屋は息子が手伝い、奥さんのスナックは娘が手伝う。さらに! 寿司屋とスナックを終戦後すぐに開いたのは、寿司屋の健一さんのお父さんとお母さん。なんと、親子3代でガード下の寿司屋とスナックを守りつづける、奇跡的な家族経営なのだ。


『スナック るり』はおそらく3畳ほど。通路も狭いため、普通のドアでなく折りたたみ式のドアを開けると、S字型のカウンターがある。スツールは6席。補助のパイプ椅子を使っても7、8人が限界だろう。でも、ここは立派なスナックだ。カラオケは歌い放題だし、お腹が空いたら通路の向かいの寿司屋になんでも注文できるし、ガード下だから駅まで歩いて1分足らず。こんな便利な店、あるでしょうか。


通路のいちばん奥、朱色のドアが『るり』の入口。
写真右側には次郎長寿司のカウンターがある。寿司屋の
VIPルーム的な造りと言えるかも

『るり』という店名の由来は、終戦後に満州から
引き揚げてきた浅丘ルリ子とご主人が
小学校の同級生だったからという

スペースの関係上、折りたたみ式のドアが。
開け閉めするのには、ちょっとしたコツが要求される

『るり』のさちこママが作ってくれる特濃ウーロンハイをすすりながら、お店の歴史をうかがった——


ここは(寿司屋もスナックも)昭和22年からやってるっていうから、もう60年以上は完全に越えてるよね。もともと先代が寿司職人で、ほかの店で修業してから、ここで店を構えたんだけど、終戦直後でしょ。こっちも当時はスナックじゃなくてバーだったけど、ドアもなくて、よしず張りだったって聞いたわよ。
最初は寿司屋が先だったみたいで、こっちの店はおバアちゃん(お義母さんをママはこう呼ぶ)がやっていたの。そのときオッサン(ご主人をママはこう呼ぶ)も、20歳前後でしょ、手伝いでバーテンをやってたみたい。それから本格的に寿司のほうに行ったのね。


S字型のカウンターが印象的な店内。カウンターは6人で満席

「わたしは肝臓が強いから」というママの
つくってくれる濃厚ウーロンハイで乾杯!

バーの時代はレコードプレイヤーを置いて、
ドーナツ盤をかけていたという

いっぽう、さちこママは青森出身で、40年ほど前に上京後、ご主人と知り合い結婚。その後、子育てを終えてから40歳でママを引き継ぎ、早くも25年の月日が経ったという。


もともとはおバアちゃんと女の子でやってて、おバアちゃんが病気で亡くなってからは、女の子がひとりでがんばってくれてたんだけど、彼女も辞めるっていうから、店自体もやめようという話になったんだけどね。私は(ママ業を)やるつもりはさらさらなかったんだけど、お酒が好きだから、ついでに飲めればいいやって……それが運の尽き(笑)。もちろんシロウトだったけど、このへん飲み屋さんが多くて遊びにきていたから、お酒が好きだと飲み屋も好きになるでしょ。だから勝手知ったるっていうか、抵抗感なくできたのね。


通信カラオケになる前は、いま機械が置いてある場所に、
レーザーカラオケのセットを置いていたらしい。
あんな図体の機械、入ったんでしょうか!?

ママの腰の後ろの壁は、店の歴史を
物語る絶妙の擦り切れぐあい

昔は寿司屋だって7時にはもう満員だったけど、最近は神田も不景気で落ち目だからねえ・・と嘆くさちこママ。現在では娘さんと1日おきにカウンターに立つ生活で、店に出るのは週3回。残りの日は「3年くらい前に来た犬の世話」で忙しい毎日だとか。


子猫の時計がやけに懐かしい

さりげなく飾られた色紙は鳥羽一郎!

通路を挟んだお向かいから届く、握りたての
寿司をつまみながら、飲んで歌える幸福!

カウンターの隅に愛犬の写真。「前は私と娘の2人で(店を)
やってたんだけど、3年くらい前に犬が家にきてから、世話が
たいへんで交代で出るようなったの。試しに店に(犬を)
連れてきたこともあったんだけど、知らないひとを見ると
すごく吠えるから、これは無理だと思って。でも、65歳にも
なれば疲れも取れないし体がキツいからね、1日おきぐらいがちょうどいいの」

昭和遺産の店の壁には、なぜかEXILE(エグザイル)のグラビアの数々。
ママの娘さんがヴォーカルのTAKAHIROファンなのだとか。
「孫もTAKAHIROが好きなのよ」とママ

創業当時からまったく改造していないという店内は、ガード下という特殊なアプローチともあいまって、昭和そのもの。「この長屋もヒドくなったなあ〜、とか言いながら入ってくるお客さんもいるのよ」とママは笑うが、見かけによらず店舗の入れかわりはけっこうあるそうで、昔から変わらず残っているのは『次郎長寿司』と『るり』の2店舗のみ。「若い子はまず来ないねぇ」ということですが、こんなに歴史的な店、スナック好きなら行かないわけにいかないでしょう。見かけはちょっと難易度高いけれど、もちろんフリーの一見客も優しく歓迎してくれますから(『次郎長寿司』ともども)、ご心配なく!



スナック るり 千代田区鍛冶町2-14-8