2011年6月30日木曜日

青山ブックセンター六本木店でトーク:7月13日(水)

『演歌よ今夜も有難う』刊行を記念して、きたる7月13日、水曜日の午後7時から、青山ブックセンター六本木店でトークをやります。


「都築響一ワイドショー」なる、恥ずかしい名前のついたこのトーク・シリーズも、今度で7回目。いつものように、売り場の一角を片づけてのトークなので、ちょっとしかない椅子は早い者勝ち! すでに予約はスタートしていますので(詳細は以下の、お店のサイトを参照ください)、できればご予約の上、余裕を持ってご来店ください。


お会いできるの、楽しみにしています。

また先週お知らせしたように、版元・平凡社のブログでは、平日毎日更新で、書中に登場してくれたインディーズ演歌歌手たちの曲と画像(動画もあり!)を紹介中。アマゾンやiTuneでは買えない音源も多いので、こちらで歌声に浸りながら、本を読んでいただけるとうれしいです。

東京右半分:プリティ・イン・ピンク

2011年現在の「ピンク映画」という存在を、どれくらいのひとが認識しているのだろうか。

AVでなく、ピンク映画。日活ロマンポルノのような大手の映画製作会社以外の製作・配給会社によってつくられるポルノ映画をそう呼ぶのだが、かつては全国各地の盛り場にかならずあった数百というピンク映画館が、激減しながらもちゃんと生き残って、新作も製作されているという事実を、どれほどのひとが知っているだろうか。



1962(昭和37)年の『肉体の市場』がピンク映画第1号ということになっている。その『肉体の市場』を配給したのが大蔵映画。新東宝を退陣した大蔵貢が同年に設立した新会社だった。『肉体の市場』大ヒットを皮切りに、大蔵映画は70年代から80年代初期のピンク映画黄金時代には、日本最大のピンク映画製作・配給元に成長した。自社が経営する直営館や、外部の中小プロダクションを統合した子会社の「OPチェーン」は、最盛期には都内だけで50館、一大成人映画館チェーンに発展していたという。

その大蔵映画グループが、いま保有する成人映画館は上野、横浜、宇都宮のみ。製作部門の子会社であるオーピー映画がつくっているピンク映画が、年間36本。その36本が、いま日本国内で製作されるピンク映画のほとんどであり、それが全国のピンク映画館に回っているわけだ。


その大蔵映画が所有する劇場のうち、旗艦とも言えるのが上野オークラ劇場。上野駅不忍口を出てすぐの好立地にある劇場は、夜ともなればクラシカルなネオンサインが輝き、小さいながらも見落としようのない存在感があった。そのオークラ劇場がついに閉館、というニュースに驚き、すぐそばに新劇場をオープンというニュースに、さらに驚いたのが去年の夏。ピンク映画というジャンル自体が瀕死の状態にある中で、新しい小屋を建てるという、それはすばらしく思いきった決断だった。


VOBO 妄想芸術劇場 第18回 強金長交2


ニャン2倶楽部最初期からの常連投稿者、強金長交のビザール・ワールドを、先週に続いてお送りする。

先週は、投稿時期としてはむしろ後期にあたる、一連の作品群をご紹介した。それは解説に記したように「点線輪郭描法」とでも呼ぶしかない、非常に独特の技法が完成の域に達した時期の投稿であったが、今週ご紹介するのはその前段階にあたる初期〜中期の投稿群。後期の作品よりも、むしろ描き込みは緻密であり、添えられた文章はあいかわらず長文だ。


ねえ英美ちゃん。なあに? 長交君。男の裸に興味ない? 見せっこしようか。 いいよ別に興味ないし、いつも見てるもん。えっ!! お父さんといつも一緒にお風呂入ってるもん。ええーっ!! な、なに? 英美ちゃん、まだお父さんと一緒にフロ入ってんの? え? ええ、いつも洗ってもらってるけど…。ええーっ!! そ、それってやっぱ…おかしいよ。ふつう。みんなにいわないほうがいいぜ。え、そうなの? みんな洗ってもらったりしてないの? 私が高校生の時だった。クラスの美少女のおもわぬ秘密をきいてしまって、すっげえコーフンしてしまった。高校生の2年になった、オヤジに…ぜったいそのオヤジはいかれてるぜ。うらやましい。こんな美少女と一緒にフロ入って、洗ってあげるなんて…、やっぱ自分の娘でもこんなにかわいいと…モデルみたいな女の子だったしなあ…
その夜、娘は、えみちゃんはいつになく恥ずかしがりました。お父さん…みんな一緒におフロ入るのっておかしいっていってたけど…。 別にいいんだよ。親子なんだし。およめにいくまでいいんだよ。


昼間の公園 小さい子供と散歩にきていたお母さんはおおあわて。あ、はだかだー!! おしりだー!! だ…だめよ、見てはいけません。ねぇねぇ、なんであのお姉ちゃんはだかなの? だめ、だめよ、よしくん、いい子だから!! 
美しい少女は、わけあって露出プレイを強制されているのだ!! そのミニスカは、下からはもちろん、上からも、ワレメの上からはいているというスーパーミニスカートなのだ!! 意見もなくかんごふなのだ!!

東京スナック飲みある記


閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。


東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第19夜:中野区・中野駅北口飲食街

御茶ノ水から四ッ谷、新宿の都心部を横断して立川、八王子方面に伸びるJR中央線は、東京の東西を結ぶ大動脈だが、新宿から東中野までぐーっと北にカーブしたあと、東中野からはほぼ一直線に西へと走っているのに、気づいている方も多いかと思う。なんで新宿をまっすぐ越えずに、あそこで急に北に向かうんだろう。中央線と平行するように、新宿駅から青梅街道の下を走って、荻窪で中央線と合流する地下鉄丸ノ内線のほうが、はるかに自然なルート設定に見えるのに。

中央線のもととなった甲武鉄道が当初計画したルートも、実はいま丸ノ内線が走る青梅街道に線路を敷くものだった。いまでは見る影もないが、明治中期の中野地方では、いまの中野駅周辺はただの野原と雑木林。いちばん繁栄していたのは、青梅街道沿いの鍋屋横丁だった(現在の丸ノ内線・新中野駅近く)。

その鍋屋横丁を中心とした青梅街道の沿道住民は、甲武鉄道の路線計画に大反対。蒸気機関車の煤煙、騒音、振動被害などを危惧した反対運動だったそうだが、おかげで甲武鉄道は青梅街道筋を諦め、現在のようにルート変更を余儀なくされる。甲武鉄道は1906(明治39)年に国有化されて、中央線の一部となるのだが、そのルート変更の結果が、いまこれだけ栄えている中野駅周辺と、あれだけ寂れてしまった鍋屋横丁の差になっていることを考えると、歴史も皮肉屋というか、いたずら好きというか・・。

1955(昭和30)年ごろの中野駅北口の様子。写真右手の「ミリオン」と
ある建物は1952(昭和27)年2月10日に開店した「中野娯楽場」。
1階がパチンコ店で2階はダンスホールだった。終戦後に駅前で営業していた
露天商らをここに入れた。建物の左には中野北口美観商店街のアーチが見える
写真提供/中野区役所

55年後の2011年現在の中野駅北口エリアを、
駅ホームから眺めたところ

中野駅周辺に商店が集まってきたのは大正年間から昭和初期のことと言われるが、いま中野駅北口のサンプラザや中野区役所がある広大な区域は、明治期から終戦まで陸軍の施設だった。スパイ養成所として後年有名になった陸軍中野学校があったのも、この地である。

中野駅を挟んで南北に延びる中野通りを、徒歩や自転車で行き来してみるとすぐ気がつくが、通りは南北両側とも中野駅に向かって下り坂になって、駅を過ぎるとまた上っている。もともと中野駅の北口と南口のあいだには踏切があって、それを1929〜1930(昭和4〜5)年に地下通路で結ぶべく、駅のまわりの土地を4メートルほども掘り下げたのが、駅周辺の商店街の始まりだった。

いま「サンモール」という愛称で知られる中野北口美観商店街は、戦前に「中盛会」なる名称でスタートしている。「商店街として発足したのは1931(昭和6年)ごろだったと思いますが、いまでは想像ができないほど商店が少なくて、南口にある(実業桃光会)桃園商店街のほうがにぎやかでした」と教えてくれたのは、美観商店街の元会長で、いまもサンモール内で『リカー&ワイン嶋屋』を営む吉田豊松さん(82歳)。

嶋屋は創業1918(大正7)年という老舗だが、同じくサンモール内に店を開いたのが1933(大正13)年という『サワノ眼鏡店』を経営する澤野邦夫さん(84歳・お父さんの澤野磯次郎さんは美観商店街の初代会長だった)によれば、いまは中野ブロードウェイに直結しているサンモールの商店街も、「昔は三番街までで行き止まりだったんです(いまのパン屋のボンジュール・ボン中野店と、眼鏡市場中野サンモール店あたり)。そこから先は一般の民家。それで商店会としては、行き止まりに面していた店に移転してもらって、道を切り開いて通りを延ばしていったんです」とのこと。いまは気がつくひとも少ないが、サンモールをブロードウェイに向かって歩きながら、右側に伸びる飲食店だらけの路地を見ると、「一番街」「二番街」「三番街」「五番街」「狸小路」「白線通り」と書かれた小さな看板が、まだちゃんと掛かっている(四番はなし)。

1958(昭和33)年11月29日、中野北口美観商店街に
現在の原型となる長さ240メートルを誇る第1回目のアーケードが完成。
都内でも有数のトンネル式アーケードだった。写真は消防庁音楽隊が
参加して行われた完成式典パレードの様子
写真提供/中野区役所

現在のアーケードは3代目。ブロードウェイに対抗して、1966(昭和41)年に
大理石舗装されている・・気がついてたひと、いますか?

戦時中になると、戦局悪化を受けて、1945(昭和20)年には北口の駅前から100メートル、約20軒ほどの商店が建物疎開によって強制撤去され、更地になったところに終戦直後、生まれたのが新宿以西では中央線沿線随一と言われる規模の闇市だった。陸軍の施設には進駐軍が入り、その倉庫から横流しされた物資が、すぐ目の前の闇市で売り払われる。物資を流した米兵のほうは、それで得た日本円を手にして、新井町や中野新橋に女を買いに行く(ともに花街があった)・・というワイルドな日々だったらしい(1989(平成元)年に中野サンモール商店会が発行した『サンモールの歩み』より)。

そんな闇市時代も1949(昭和24)年にGHQの露店撤去命令が出されたのを受けて、東京都による露店整理事業が進んで終わりを告げた。「中盛会」も同時期に「中野北口美観商店街」として再スタート。そのあとは1966(昭和41)年の「東洋一の規模」と称された中野ブロードウェイ完成や、1958(昭和33)年と1975(昭和50)年の二度にわたるサンモールのアーケード完成などを経て、現在のような北口商店街エリアの姿ができあがっていく。駅前からサンモールとブロードウェイを通って、早稲田通りまで抜けるルートができたことで、それまでとはひとの流れが一変した。振り返ってみれば昭和41年のブロードウェイ完成から、43年の中野区役所新庁舎事務開始、48年の中野サンプラザ開館、そして50年のサンモール・アーケード完成まで、昭和40年代に中野北口は大きな変貌を遂げたのだった。

1966(昭和41)年10月に完成した中野ブロードウェイ。現在では
「オタクの聖地」として知られるスポットだが、完成した当時、
地上10階・地下3階(地下1階から地上4階までが商業店舗、
5階以上が高級マンション)の建物は「東洋一」と称された。元東京
都知事の青島幸男や沢田研二ら有名人が住居にしていたことでも知られていた
写真提供/中野区役所

今回飲み歩くのは、そんなサンモールからブロードウェイ裏に広がる飲食街のスナック。もともとはブロードウェイ裏に「中野四十五番街」と名づけられた、昭和の香りをどっぷり残す飲食街があったのだが、徹底的な地上げにあって、いまは1956(昭和31)年創業という中野きっての老舗スナック『ぱじゃんか』1軒を残すのみ。この店と、オーナーママである政子さんの歴史はそれだけで一冊の本がかけてしまうほどなのだが、去年発表した拙著『天国は水割りの味がする 東京スナック魅酒乱』で、すでに詳細に紹介させていただいたので、今回は別のお店を訪ねてみた。

サンモールの商店がシャッターを閉める時間あたりから、がぜん活気づく北口の飲食街。とりわけサンモールの1本裏を並行に走る「ふれあいロード」には、オタクキッズから中年サラリーマンまで、多種多様なひとびとが一夜のメシとサケを求めて右往左往するのだが、前述の澤野さんによれば、「中野駅北口一帯はいまや飲み屋だけでなく、ラーメンでも激戦区」なのだそう。「入れ替わりは激しいけど、40数軒はあるでしょうか」という状態だそうだが、そんな麺とスープの湯気に隠れるように、昔ながらの居心地いいスナックもまだまだたくさんある。肥大しつづける腹回りが心配なきょうこのごろ、”シメのラーメン”のことは考えないようにして、ウーロンハイとカラオケに一夜、浸りきってみよう。

来週は文京区湯島を飲み歩きます。

21世紀になっても、夜ともなれば北口サンモール裏は、居酒屋や
スナックのネオンが昭和の昔と変わらぬオトナの雰囲気を醸し出す

今夜の1軒目は、ふれあいロードと三番街が交差する角地にある飲食ビルの地下1階で、1981(昭和56)年から営業中という老舗店『ミュージック ナイススポット スナック 芝』。『中華そば青葉』の向かいと言ったら、ラーメン好きならわかってもらえるだろうか。


『スナック 芝』が地下に入る、
ふれあいロードに面したソシアルビル

「シバ」のロゴタイプが可愛らしい。
ちなみに店名はママの名字「芝」から

外からはうかがい知れないが、いざ入店してみると意外なほど広い空間。向かって右側に長いカウンター、左側がソファ席。その奥にはアップライトピアノまで備えたステージが用意されている。

「ミュージック・ナイトスポット」と名がつくだけに、音楽にはかなりうるさいこの店。それもそのはず、『芝』のさだのママは、もともとジャズシンガーとして長く国内・海外で活躍してきた経歴の持主なのだ。

白い丸テーブルと、黒いソファがモダンな感覚

国際経験豊富なママらしい壁面装飾

「父がモボ(モダン・ボーイ)でしたから、その影響が大きかったですね」と言うさだのママ。小さいころから芸能の道を目指して日舞に三味線といった習い事に精を出し、「ほんとは宝塚を目指していたんですが、身長制限に引っ掛かって・・ジャズ歌手の道に入ったんです」。

かまやつひろしのお父さんであるティーブ・釜萢(かまやつ)が設立した「日本ジャズ学校」でジャズ・ボーカルを学んだあと(平尾昌晃も同じころに学んでいたそう)、昭和30年代なかばごろから、ビッグバンドの専属シンガーして米軍キャンプで歌うようになった。「当時の大卒のお給料が1万5000円だったころに、ギャラが100ドルですから、3万6000円もいただいていました」。バンドのメンバーからは「オレら10年も下積みしてるのに、(ママと)とギャラが同じだよ」と言われたそうだから、その人気と実力がうかがえるというもの。

エントランスにはママのジャズ友達との
セッション風景を撮影した写真コーナーが


ボクシング関係者もご来店

さだのママ20歳のころ、ナンシー梅木の前歌を務めたママ。
バンドはフランキー堺とシティスリッカーズ。ドラムが
フランキー堺、植木等に谷啓も見える!

立川、横田など米軍キャンプを経て、羽田東急ホテル(現・羽田エクセルホテル東急)をはじめとした日本のホテルのラウンジで歌っていたが、1971〜1972(昭和46〜47)年ごろ、誘われてタイのナイトクラブで歌うことになった。1年半、タイに滞在したあとは台湾や香港など、アジア各地のナイトクラブを歌ってまわり、帰国後はナイトクラブ全盛時代の東京で、クラブシンガーとして大いに活躍。「あの当時ってね、クラブ歌手のほうがレコード歌手より、ギャラが良かったんですよ」と、当時のオトナの夜の世界を懐かしげに語ってくれた。

高級クラブやグランドキャバレーが下火になった1971年(昭和46)年、中野駅北口から歩いて10分足らずの北野神社(天神様)近くに、自分のスナックをオープン。そのあと「たまたまこの店に遊びにきたら、オーナーが米軍キャンプで歌っていたころのバンドのメンバーだったんです。それで、『オレ、もうこの店を閉めるから、やってよ』って言われたんです」と、いまから30年前にこの場所に移ってきた。


マンハッタンのスカイラインとピーポくん・・

お客さんのリクエストに応えて、貫禄のボーカルを披露してくれる
ママ。今宵の一曲は『スターダスト』でした

「いまは不景気だから店も大変ですけどね、歌っていいでしょ、歌があるからやってられるんですよ」と言うさだのママ。帰り際に、最近常連になったあるお客さんの話をしてくれた——「そのひとはね、ここ4年ほど、週に2回は通ってくれてる、女性のお客さんなんです。ご主人と、お子さんも亡くしてしまって、鬱になりかけたときにこの店に紹介されて来てくれて。その方はお酒飲めないから、歌いに来るだけ。でも、いまではカラオケ仲間もできて、いろんなところに歌いに行くようになったみたいなんですよ。そんな話を聞くとね、歌って、なんていいんだろうって思うんです」。

常連さんには「マイスリッパ」のキープ・サービス。
長居必至、落ち着いちゃいます!


ミュージック ナイススポット スナック 芝 中野区中野5-57-2 請島ソシアルビルB1

ふれあいロードのすぐ裏、その名も「昭和新道(しんどう)商店街」という、いかにもな飲食街にある路面の店が『スナック ピッコロ』。外観からして昭和の「ザ・スナック」という風格だ。

いかにも正統派のスナックらしい店構え。ちなみに店名は、
前のオーナーが「笛のピッコロの小さくてかわいいイメージ」からつけたそう

居抜きで借りたため、造作は前のオーナー時代のまま。
カウンターがメインのシンプルなつくりだ

その名のとおり、入ってみれば可愛らしいサイズのお店だが、ひときわ目を引くのが壁にどーんと貼られた魚拓。それも素晴らしいサイズばかりだが、その釣り人が文恵ママ。「私は東京生まれで田舎がないもんだから、小さいころから自然があるところに行きたいと思ってて、初恋の彼氏にも渓流釣りに誘ってもらっていたりしました」という、元祖「釣りガール」である。

しかし壁にはご自慢の魚拓があっちにも、こっちにも

古風なランプシェードも前の店からいっしょ

文恵ママが本格的に釣りの世界にハマったのは、1985(昭和60)年ごろのこと。そのころは釣りと言えば「男の世界」で、釣り船に乗る女性なんて、ほとんどいなかったそう。「もう船に乗る前から、『えー!? きょうは女が乗るのかよ!』って男の釣り客に言われたりして、すっごいイジメられたのよ。船長だってイヤがっていたんだから。で、私が釣ったら、『女が釣ったから、オレが釣れなかったんだよ』って嫌味を言われて。でも、いまじゃ逆でしょ。女のひとって必ず彼氏やグループで来るから、船宿も大歓迎ですよ、まったく!」と、クイクイ焼酎のピッチが上がる。

「85センチのヒラメ!」を釣り上げたママを報じる新聞記事

カウンター上のガラス棚。ボトルの裏に
名前を書いてキープする、収納の知恵

向島で生まれ育ったママは、いちど結婚したあと、離婚して実家に戻って、1975(昭和50)年ごろ友達から、中野の不動産屋の事務職を紹介されたのが、中野とのご縁の始まり。「でも当時の中野って、向島から見ればすっごい田舎のイメージでしょ。下町のひとが言う都会って、銀座か上野だから、新宿から向こうなんてまったく知らない世界」。母親にも「なにもそんな田舎に行かなくたって」と嘆かれながら、向島から「もう〜、いやになるくらい遠かった」中野まで、毎日通勤していた。

遠距離(?)通勤に耐えながら不動産屋で働いていた文恵ママだが、あるとき会社が契約している物件のオーナーから、店を売却してほしいとの申し出があった。「でも、当時で650万円。そんなの高くて買い手なんかつかないのに、とにかく早く売ってくれって催促ばっかりされて・・結局、私が買っちゃったんですよ」と、一事務員だったママが、思い切って店を購入することに。もともとお酒が大好きだったのと、「私も40歳になるし、母親からも『あんた、ずーっとひとりで、これからどうするの』って言われてた」のが、きっかけになったという。

マイク型のライター、かわいい

マリリンと相田みつをのいるお手洗い

画鋲で留められたジェイムズ・ディーン。しかし現在は
「韓流ドラマに100%ハマっています」。「『冬のソナタ』より前の
『秋の童話』から観ています!」とキャリアを力説

かくして、前のオーナーから引きついだ文恵ママの『スナック ピッコロ』は1987(昭和62)年にオープン。しかしもちろんママ経験は皆無だし、当時もいまも「極度の人見知り」なので、「シラフじゃ絶対無理。飲んでないと」接客できないのだそう。「結局、飲むほうが好きだから、酔っぱらって私がお客さんになっちゃうの。まあ、商売になんないんだけどね」と笑うが、そういうフレンドリーなスタイルが、常連さんを惹きつけるんですねえ。

「お金があったら旅行に行くから」というほど旅行好きの文恵ママ。
おかげで、かつての釣り仲間の代わりに、いまは旅行仲間の客が来店してくれる。
「2ヶ月に1回は旅行に行くから、年に6回かな。旅行って、遠くに
行くだけでストレスが解消されるから、最高だと思いません?」。
ちなみに目標は「死ぬまでに一回でいいから、宮崎県の高千穂は行きたい。
新緑が好きだから、その季節に行きたいなあ」

いま『ピッコロ』は12時30分までママが営業して、午前1時から別の若いママに貸している。「でも、ここは古い商店街だから、他人に店を貸してプライドがないのかって、イジメられたのよ。でも、そんなこと言ったって、私は深夜営業したくないし、時間が空いているひとがいるんだったら、貸して家賃をもらったほうが正しいと思うの!」。まったくそのとおりです。こういう二毛作の店がもっと増えたら、若い子がもっと気楽にお店始められるのにね。
スナック ピッコロ 中野区中野5-54-8

中野北口をうろうろ飲み歩いてるひとは、『ワールド会館』という強烈な押し出しのビルを、きっと見たことがあるだろう。中野北口新仲見世商店会に属する『ワールド会館』は、かつて大きな割烹旅館があったのが取り壊されれて、跡地の一部が映画館になり、やがてビジネスホテルに取って代わったもの。そのビジネスホテルもとうに営業を止めて、いまは地下から2階まで古風なスナックから、いかにも中野らしいオルタナ系のバーまで、各種取りそろって酔客のお越しを待っている。

昼も夜も、ものすごく印象的な外観の「ワールド会館」



開店御祝いの花輪(岡田彰布とか!)に誘われて、ふらふらと入り込んだ『ELVISと素敵な昭和歌謡曲』は、なんと訪れた前日の2011(平成23)年6月24日がオープンという、できたてほやほやすぎる店。店名も楽しいが、店内も名前に負けず、エルビス・プレスリーのポスターと、ジュリーをはじめとした昭和歌謡曲のシングルジャケットで埋め尽くされて、かなり楽しい。

落ち着いた色調の店内に、マスターのコレクションが
隙間なくディスプレーされている

フライングVが掛けられた壁面。ギター談義が始まると、
もう止まらないマスターは熱烈ギター・ファンだ

各時代のエルヴィスを網羅したコーナー

東京生まれ、神奈川県座間市育ちという、ロカビリー・スタイルがよく似合う薫マスターは、「もともとバンドマンやってたんですが、1980(昭和55)年に21歳で、町田に『ホンキートンク』という店を開いたのが最初です」。バンドマン時代は「ロックンロールじゃなくて昭和歌謡曲ポップスから演歌まで演奏してました」というマスターだが、ステージが恋しくなって町田の店を一時休業、新宿のプロダクションに所属して、ボーカル&コンガ・プレイヤーとして活動する。

そしてやっぱり「音楽を武器とした水商売」を続けていこうと、1984(昭和59)年に新宿、次いで歌舞伎町で『ホンキートンク』というバーをオープンさせるのだが、しばらくたって長野県諏訪市に、いきなりのお引っ越し。「スカウトされて歌ってた店の社長が諏訪にビルを買って、『オレが大家だから安心して来いよ』ってダマされて(笑)」移転を決意したそうだ。ちなみに歌舞伎町にはまだ、昔の『ホンキートンク』の看板が残っているとか。

料理にはかなりのこだわり。おいしそうで、しかも激安のメニュー
構成にびっくり。「自分がひとりで飲みに行ったときに、一品600円や
700円で大きな皿に料理を盛られても、いらないじゃないですか。
だから小さな皿で250円ぐらいで出して、3品か4品を
食べられたほうが、うれしいと思うんですよ」

「どこに行っても友達ができるタイプなので、諏訪は諏訪で楽しかったですよ」と語るマスターだが、「両親が年老いてきているから帰ってあげようかな、と。それにこっちは昔からの知り合いもいるから」と、東京に再び戻ることになって、ふたたび新宿で店を構えようとしたものの、「新宿時代は朝の10時ごろまで店をやっていたんですよ。それで僕が新宿に戻ると、仲間たちはもういちど、それを求めるでしょ。でもそれをやっちゃうと、年齢的に死期を早めるかなあって」・・と当然の悩みを抱えていたときに、昔(マスターの店で)バイトしていた一世風靡の政計さんが不動産屋の社長になっていて、彼から警察大学の跡地が民間に譲渡され、そこだけで5万人は増えるからと聞かされ、中野での新規オープンを決意。『ELVISと素敵な昭和歌謡曲』の、素敵な開店にいたったというわけでした。

薫マスターには、若かりしころラジオ関東(現・RFラジオ日本)
『ハロー・ヤングラブ』で、アシスタントをしていた
経歴が。番組のライブに出演した写真も飾られていた

カラオケじゃなくて、本物の演奏CDからボーカルを
抜いただけなので、完全に歌手気分!

「あなたのお気に入りのCDがカラオケになる。たまには生演奏もあり」と看板にある薫マスターの店は、通常のカラオケシステムではなく、お客さんの好きな曲をCDでかけ、それをボーカルキャンセラーを通して、ボーカル部分をカット、お客さんがCDに合わせて歌えるという、なかなか珍しいスタイルだ。手が空けば、それにマスターのギターがナマでかぶさって、カラオケというよりロック・キッズの練習スタジオみたいな雰囲気。当然ながら歌詞が出てくるモニターとかはないので、歌本を何冊も常備している。歌詞カードの小さな文字も解読可能なように、老眼用メガネまで用意されているので、暗い店内でも心配ご無用だ。

歌集も各種常備、たいていの曲には対応できます

しかも老眼鏡まで・・うれし恥ずかしサービス

熱烈な「トラキチ」でもある薫マスター。特に現在オリックス・バファローズの
監督である岡田彰布氏とは、1985(昭和60)年、阪神タイガースが
優勝した年からの知り合いで、「僕は“兄貴”って呼んで、向こうは
“薫”って呼び捨てで呼んでくれる仲なんです」。そもそも岡田さんが
阪神時代に東京遠征した際、マスターの店で飲んだことがきっかけで、
遠征のたびに店に来てくれるようになった。ときには3日間連続で
通ってきたこともあったそうで、店内には出会った当時の1985(昭和60)年
4月29日に撮影されたツーショットの、大きなパネルが飾られていた

『輝け若虎/Tiger Shakin' Goin On』by 薫マスター。
こんなレア・チューンもあったんですね!

「会話を楽しめる店にしたいので、カラオケマシンは置こうかどうか、まだ迷ってるんですよ」という薫マスター。いいですよ、そういう店はまわりにいくらでもあるんだから。このユニークなシステムで、オンリーワンの店を目指してください!

岡田監督から贈られた開店祝いの生花とともに

ELVISと素敵な昭和歌謡曲 中野区中野5-55-6 ワールド会館1階B