2011年2月2日水曜日

村上春樹『雑文集』で、『壁と卵』を読む

書店に山積みになっているので、もう手に取ったひとも多いでしょう。村上春樹さんの、いままで単行本に未収録だった作品、未発表の文章、ぜんぶで69編を集めた新刊です。『雑文集』なんて題名と裏腹に、小説とはまたちがう、すごく興味深い文章がたくさん収められていて、その前に出たインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』とあわせて読むと、なにをどう考えながら毎朝ワードプロセッサーに向き合っているのか、どうやってあんなイマジネーションを生み育んでいくのか、そういった創作の根源に少しだけ触れられるような気がしてきます。

『雑文集』には僕の本について村上さんが書いてくれた文章も2編収録されています。『珍世界紀行ヨーロッパ編』の書評『都築響一的世界のなりたち』と、『夜露死苦現代詩』について書かれた『蒐集する目と、説得する言葉』です。限られたページの中で、2編も入れてもらって嬉し涙・・・。

しかし本書の価値は、むろんそんなところにあるのではなくて、なんといっても2009年のエルサレム賞受賞スピーチ『壁と卵』が掲載されていることです。いまだパレスチナと実質的な戦争状態にある、イスラエルという好戦的国家から賞を受けることが発表されると、本人の書いているとおり「国内外で激しい批判があった」のを、覚えている方も多いはず。イスラエルという国家や政治体制と、イスラエル人の愛読者や文学愛好家は別物であるはずなのに、イスラエルにも、パレスチナにすら行くことなく、東京でぬくぬく飲んだくれたりしながら、「賞を受け取れば、イスラエル政府に加担することになる」とか、「パレスチナへの連帯を示すために辞退すべき」とか放言してた”評論家”や”文化人”が、当時どれほどいたことか。

「行くな!」とたくさんの警告を受けたと書いているとおり、あのときイスラエルに行くのは、ものすごく勇気を必要とする選択だったと思います。だって、行かないほうが、どれだけ楽かわからないのだし。そして『壁と卵』は、ほんとうにすばらしいスピーチでした。スピーチの原文(英語)がイスラエルのメディアに掲載されると、ほとんど瞬時に日本の有志たちによって、翻訳文がどんどんウェブ上にアップされ、改訂されていったのも感動的でした。いま考えてみれば、あれはテレビ局や大新聞という既成の文芸メディアが、ウェブを武器とする個人の集合体に、完全に敗北を喫した歴史的な瞬間のひとつだったのかもしれません。

映画『真昼の決闘』をビデオで何回も見直してから、意を決して飛行機に乗ったというエピソードには胸を突かれますが、この5ページほどの短い一文だけで、本書は永久保存版になるでしょう。それがどれほど正しくても、堅く大きな壁になるよりは、壁にぶつかって割れる卵になりたい——そう志す、すべての表現者にとって『壁と卵』は、人生のなかで何度も読み返したくなる宝物になるはずです。

しかし、とここでまた自分のことに戻ってしまうのですが、最近「書評」というものについて、ひさしぶりに考えてしまいました。いままでずいぶんたくさんの本を出して、新聞から小さな雑誌まで、新刊紹介やレビューや、ときには村上さんの文のように、きちんと向かいあってくれた書評をそれなりに載せてもらってきたのですが、このほど出版した『ROADSIDE USA 珍世界紀行アメリカ編』については、レビューが載ったのがいままでなんと『SWITCH』一誌だけ! こうやって書くのも恥ずかしいけれど、こんなの初めての経験でした。

『SWITCH』は担当編集者が僕の本をよく買ってくれていて、それでこの本も「自分で買って気に入ったので、書かせてくれ」とわざわざインタビューに来てくれたのですが、あとはいまだに反応ゼロ。ま、その程度の作品と言われれば返す言葉がないのですが、ほんとうの理由は「いつもとちがって、この本は高すぎて新聞や雑誌の編集部に献本できなかったから」だと、だんだんわかってきました。「送ってくれたら書きます」と言われたことも、何度かありました。

1万円近くする本ですから「買ってくれ」とは言えませんが、でも・・。新聞や雑誌で働くひとたちはよくわかってると思いますが、編集部には毎日たくさんの見本誌や献本が送られてきます。音楽メディアに、たくさんの見本盤が届くように。そうやって届いた「見本」のうちから、おもしろそうなものや、送った側との力関係から編集者がピックアップしたものを、ライターに割り振って書かせる——いま、ほとんどの雑誌の書評欄やブックレビュー・コーナーは、そうやって作られています。音楽誌の新盤紹介コーナーや、ファッション誌のページがそうやって作られるのと同じように。現場に行かない評論家や、身銭を切らない編集者によって。

書く人間が、自分の手と足で本屋(やライブハウスやストリート)から気に入った作品を発掘してきて、それを署名というリスクを背負って評価する——それが本来のレビューというものだと思うのですが、大部数の献本ができたり、(音楽誌やファッション誌の場合はとりわけ広告出稿というかたちで)編集部に影響力を行使できる会社の商品ばかりが、こうしていろんな雑誌の誌面を飾ることになります。そうやって作られた文章に、発見のヨロコビなんてあるわけがありません。

書評に頼らなくても、わかってくれるひとは見つけてくれてると思うので、自分の本のことはどうでもいいのですが、ブログやツイッターの感想文レベルじゃなくて、プロによるちゃんとした、ワクワクさせてくれる書評をもっと読みたい! と思ってるひとって、たくさんいるんじゃないでしょうか。