2011年2月24日木曜日

これぞアウトサイダー・アート、限界的新連載VOBO!


去年で創刊から20周年を迎えた日本最強、いやもしかしたら世界最強にビザールなシロウト投稿露出マガジン『ニャン2倶楽部』と姉妹誌(兄弟誌か)『ニャン2Z倶楽部』。僕もつねづね愛読してはいましたが、なんとこのほどウェブマガジン・ヴァージョンが誕生。その名も『VOBO』、渋いネーミングですねー。

「ECSTACY WEB MAGAZINE」とサブタイトルにあるVOBOは、本誌と異なりそのスジの著名人(そしてもちろん愛読者のはず)であるひとたちのエッセイ中心で、じっくり熟読できる内容。みうらじゅん、ケロッピー前田、会田誠、根本敬、リリー・フランキー、丸尾末広、佐川一政などなど、創刊号からして豪華メンバーで、しかも毎週火曜日更新、しかもタダ! という信じがたい大盤振る舞いであります。

うれしいことにお声がかかって、僕がやらせてもらうのは『妄想芸術劇場』と題した連載コーナー。本誌のほとんどを占める過激な投稿写真の陰に、ひっそり隠れるように創刊時から続いている「投稿エロ・イラスト・コーナー」。そのハガキ職人たちの知られざる傑作群から、毎回ひとりずつをピックアップして紹介する、驚異のウェブ誌上個展です。

その記念すべき1回目を飾るのは、『ニャン2』投稿イラスト史の至宝とも言うべき「ぴんから体操」さん。もう、ペンネームからして最強ですが、過去20年間にわたって、時代によって作風を大きく変えながら、現在まで投稿が途切れない、そして編集担当者すら会えたことがないという、まことにミステリアスな存在です。

20年間の投稿作品を掘り起こし、時代別にご紹介するソロ・エクジビション。今週から4週間!にわたってお送りします。これこそが真のアウトサイダー・アート。正座してご覧ください!


第1回 ぴんから体操 1 初期の漫画ふう〜モノクロ作品

1990年の『ニャン2倶楽部』、そして93年の『ニャン2倶楽部Z』創刊当初から設けられた投稿イラスト・ページ。「イラストの森」「趣味のあぶな絵」「汗かきマスかきお絵描き教室」「現代の春画展」などと、そのときどきで適当なタイトルをつけられながら現在も継続中である。

20年間の歴史が生み出した多数の常連、名物投稿者を取り上げ、いわばウェブ誌上個展として紹介していく『妄想芸術劇場』。そのトップバッターとしてご紹介するのが「ぴんから体操」氏である。すでにご存じの方も多かろう、ニャン2史上に輝く伝説の投稿アーティストだ。




ぴんから体操氏がニャン2に初登場するのは1992年1月。色鉛筆の繊細な筆づかいを特徴とする現在の画風とはずいぶん異なり、猫耳に大きな瞳の少女たちを主人公にした漫画ふうの作品だった。

94、95年と投稿が一時途絶えるが、96年になって復活。しかしその作風は一変していた。90年代初期の漫画タッチは影をひそめ、黒ペンによる点と線だけで画面が構成された、それはダークなグロテスク・リアリズムであった。

異端の漫画家・東陽片岡を想起させる背景の緻密な描線と、点描による人物表現から生まれる異常な緊張感。突然の作風転換の裏に、いったいなにがあったのだろうか・・・。
(ぴんから体操氏の作品には、しばしばその裏面に、これもアウトサイダー現代詩としか言いようのないフレーズが、肉筆で記されている。今回はその文章も余さず採録した)



穴の肉星6 
野外訓練
おまんこにミツをぬられてこのかっこうのままアリにたかられても
気味悪い虫がきてもグラスを落してはならぬ 
もし落したらもっとひどいおしおきがまっているからじゃ

病院で言われた。ちんぼうが骨折しています、ぬははと。 
つったったままの看護婦はだらだらして思いつめたよう。いたいよう。
ぬははと三年前につぶれた、病院のべっとで、血ぬれて待つだろうか。 
もう一度ゆきたい 弟が待っている消えた病院へ。

東京右半分:右半分怪人伝1 縄一代・濡木痴夢男 前編

SMという世界にほんの少しでも興味を持ったことのある人間にとって、濡木痴夢男の名はつねに伝説として、また導師としてこころにあったにちがいない。


終戦直後(昭和21年)にカストリ雑誌として創刊された、おそらく日本初のSM雑誌『奇譚クラブ』編集長・美濃村晃に導かれ、昭和28(1953)年に23歳で初作品『悦虐の旅役者』を発表。以来現在まで実に58年間、数十のペンネームを使い分け執筆した小説、記事が1000点以上。そしてその執筆作品以上によく知られる、SM縄芸術の様式美を完成させたパイオニアとして、数々の雑誌グラビア、ビデオ、DVD等のメディアで、またみずからが主宰した愛好家クラブ『緊美研』会場やプライベートの機会に、これまで縄をかけた女性が5000人とも6000人とも言い、80歳を越えた現在も活動の手をゆるめない、まさしく日本SM界の巨星である。

そのようにおびただしい作品を発表してきながら、いままで濡木痴夢男本人へのインタビューはほとんどかなわず、その人となりを知るのも容易ではなかった。これほどよく知られながら、これほどミステリアスな存在の現役作家・表現者というのも、あまり例がないのではないか。



これから3週にわたってお送りするのは、現代日本が誇る(べき)最強のアンダーグラウンド・アーティストの、波乱に満ちたライフヒストリーである。その第1回は『田端方丈記』と題して、その旺盛な活動の拠点とする、「魔窟」としか形容しようのない、しかしいままでカメラを(そして訪問者も)入れることをまったく許さなかったプライベート空間を、メディアで初めてご紹介する。それは、あまりに多彩な活動をそのまま体現した脳内宇宙であった。


東京スナック飲みある記


もう50年以上、東京で生活しているのに、行ったことのない町がたくさんある。入ったことのない本屋もレコード屋も、食べたことのない定食屋もたくさんある。それから、飲んだことのないスナックも! 東京はひとつの都市じゃない。イクラのつぶつぶみたいに小さな町がくっつきあった、ぐちゃぐちゃの巨大な集合体だ。

夜、知らない町に降りたって、看板の灯りに惹かれてスナック街を歩くのは、夜間飛行にちょっと似ている。眠れないままに窓の外を眺めると、真っ暗な大地にぽつんぽつんと明かりが見える。ああここにもだれかが住んでるんだな、いまなにしてるんだろう。そうして退屈なフライトが、少し楽しくなってくる。

閉ざされたドアから漏れ聞こえるカラオケの音、暗がりにしゃがんで携帯電話してるホステス、おこぼれを漁るネコ・・。東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう場所。

東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。毎週チドリ足でお送りします。よろしくお付き合いを!

第4夜:葛飾区・立石呑んべ横丁


かつて東京にはたくさんの「ションベン横丁」があった。店の中に便所がなく、だれもが共同便所に行くしかない、尿臭ただよう飲み屋街・・・。でも新宿のションベンが「思い出」になって、渋谷のションベンが「のんべい」になって、名前だけでなく建物や空気までがクリーンな、ただの飲み屋街になってしまったいま、京成立石駅前でかつてションベン横丁と呼ばれ、いまは「呑んべ横丁」と名こそ変われ、あいかわらず酔っぱらいが店と共同便所を千鳥足で行き来する一角は、ほとんど戦後文化遺産と呼びたい貴重な「場末空間」である。

京成立石駅南口。階段を降りたとたんにハムカツの匂いがしてくる駅なんて、
東京でほかにあるだろうか。

線路の上を駅舎がまたぐ立石駅。もうすぐ高架になってしまう

1968(昭和43)年2月20日に撮影された京成立石駅。
この年の10月に駅舎が改築された。
写真提供/葛飾区郷土と天文の博物館


いまや全国的に知られるようになったB級グルメ街・立石仲見世通り


それまで田んぼと畑ばかりだった葛飾の立石あたりが、急速に変化を遂げだしたのは京成電鉄が押上〜江戸川・柴又間を走る路線を開通させた大正元年から。東京の新興住宅地として人口が急激に増加。また江戸川、中川、荒川、綾瀬川に囲まれるという水運の利から、葛飾区に工場が集まるようになる。そして関東大震災から昭和期になると、さらに工業地帯として発展。終戦後も、都心部に較べて空襲被害が少なかったこともあり、すぐに復興、1950(昭和25)年の朝鮮動乱勃発による特需期を迎えて、昭和30年代から40年代に町工場地帯として最盛期を迎えるようになる。そして区役所が置かれていることからもわかるように、その中心地であった立石は、流入してきた工場労働者が住み、遊び、飲み食いする街として、高度成長期の光と闇をひとところに押し込んだような、独特の繁華街を形成するようになった。


京成立石駅北口、立石駅前交番の裏の一画は売春防止法施行まで、赤線として賑わっていた。
 現在も入り組んだ路地の様子や、門構えがカフェー調の店、
キャバレー跡などの遺構が当時を偲ばせる。


立石駅北口から出て、駅前通りを入った左側、交番がある裏のあたりには、空襲で罹災した亀戸の業者たちが移転して形成された赤線跡がある。もともと「進駐軍から一般婦女子を守る性の防波堤」として設立された慰安施設RAA(Recreation and Amusument Association)がそれで、開設当初は米兵が押し寄せたというが、性病の流行などでまもなくGHQによりオフリミッツ(米兵立ち入り禁止)とされ、日本人用の売春地帯となったものだ。

現在でも何カ所か、その名ごりが残っている建物が見受けられるが、1957(昭和33)年の売春防止法施行以降は、通りを挟んだ現在の呑んべ横丁が、いわゆる青線(非公認売春地帯)となる。建物疎開地跡に1954(昭和29)年に建てられ、それまで『立石デパート商店会』と呼ばれていた横丁は(現在もそれが正式名称だが)、もともとは洋服屋や植木屋や糸屋や金魚屋のあるふつうの商店街だった。それが、横丁内の飲み屋がだんだんと風俗営業を始めていって、昭和40年代には完全な飲み屋街に変貌。そして青線が昭和50年代後半に消滅するようになって、現在のような居酒屋・スナック街になったのだった。

昔は赤線(店の二階で座布団売春)でしたけど、廃止後はみんな飲み屋さんになりましたね。私は当時はまだ子供だったけど、近所のお兄ちゃんに連れてゆかれて、コトが終わるまで外で待ってたもんですよ。
盛り場としての賑やかさでいえば、立石は京成本線のなかでもいちばんだったんじゃないでしょうか。町工場が多い場所ですから、蹴飛ばし屋(プレス工)、メッキ工のお客さんも多かったです。飲食街には〝荒くれ者〟がたくさんいましたねえ。
私自身も昭和40年代に、バーを交番近辺のところで経営していました。5坪でカウンターとボックスに、女の子を5人ほど置いた店でしたけど、ものすごく儲かりましたよ。女の子の時給も、当時で500円ぐらいあげてたし。組合で毎月のように、熱海だの網代だのに旅行してたもんですよ・・・。
地元のタクシー運転手さんのお話

工場、赤線、青線、飲み屋街・・・当時の立石に立ちこめていたであろう粗野でエネルギッシュで、陽気さと陰鬱さが交錯する立石の空気は、この地で育ったつげ義春・忠男兄弟の作品によく描かれている。また血液製剤を製造する日本製薬葛飾工場があったことから、原料確保のための「血液銀行」に売血に通う人々も多かった。つげ忠男はそこで長く働いていたし——

血液銀行には、自分の血を売って一日か二日を食いつなごうとする人々が、くる日も、くる日も、受付の窓口に長い行列を作った。
 この会社で、一度辞めてまた勤め、都合十年、わたしはこのトコトン放埓で、陽気で、粗々しい行列を見続けることになるのである。
(つげ忠男劇場 http://www.mugendo-web.com/t_tsuge/mukasi.htm)

若き日の五木寛之も、困窮をしのぐためにしばしば売血に走ったという——

立石の製薬会社に、しばしば血を売りに行ってピンチをしのいだ。この売血というやつは、肉体よりも、精神に悪い影響を及ばすものらしい。出かけて、二百C。抜いて、手取り 四百円ほどもらってくると、二、三日は働かないで済む。つい習慣性におちいりやすい危険があった。・・・四百円を握りしめてたんぼ道を帰ると、遠くの景色が傾斜して見えた。もう二度と血を売るのはやめよう、とそのときに考える。だが、またどうにもならなくなると、京成電車に乗るのだった。
(わが人生の歌がたり―昭和の青春)

そんな光と影の昭和時代が遠く過ぎ去り、現在の立石は「レトロな商店街で立ち飲み、立ち食いできる下町情緒の味わえる街」として、プチ観光ブームに沸いているのはご存じのとおり。それは喜ばしいことだろうけれど、「レトロな商店街」が形成されてきた歴史の裏には、そんな陰の部分があったことも記憶に留めておきたいものだ。そうしていま、その「レトロな商店街」や東京最後の「ションベン横丁」が、一挙に消滅しかかっていることは、ご存じだろうか。

都心から千葉方面に向かう京成線に乗ると、手前の四ツ木駅までは高架線だったのが、立石で急に地上に降りて、その先の青砥駅に近づくと、また高架に戻ることに気がつく。ここだけが唯一、路線高架化から取り残されているわけだ(かつては急行停車駅で、沿線有数の乗客乗降数を誇るにもかかわらず、平成22年7月のダイヤ改正で普通列車しか停まらない駅になったのは、京成の嫌がらせかと勘ぐりたくもなる)。

この、残された区間の高架化(墨田・葛飾連続立体化)予定が2012年・・・って来年じゃないですか! それにあわせて駅周辺を再開発。現在のごちゃごちゃした飲食街を、仲見世も呑んべ横丁も全部取っ払って、おしゃれな駅前広場と複合ビルに変貌させようというのが、京成電鉄と葛飾区の描く「21世紀の立石」ビジョンなのだ。

すでに用地買収が済んだ駅前の一角は駐輪場になっているが、その柵に「計画案のイメージ・パース」が貼り出されているので、ご覧いただきたい。なんの個性も特徴もない、ただの郊外ターミナルと化した惨めな姿が、そこにある。



葛飾区による「立石駅周辺地区まちづくり基本計画」がこれ・・・。
上図が仲見世通りのある南口、下図が呑んべ横丁を含む北口だ

駅周辺の一角には、再開発を推進する「まちづくり事務所」もある

「タテ夫とイシ代」の再開発問答集」。親しみを持たせたいのはわかるが・・

赤線跡の飲食・スナック街にはこんなスローガンもあった

すでに地上げの済んだ一角が駐輪場に。
前は見られなかった呑んべ横丁の建物裏側が見えている。
左奥が横丁入口のサイン

開発計画によれば、まずは呑んべ横丁を潰して、工事のための資材置き場にする。そのあと高架化までの仮設の線路がそこに敷かれるそうなので、「高架で引っかかるのは線路側の店だけなんだけど、ここは店が全部つながってるから、一軒だけ潰すわけにはいかなくて、全部壊さなきゃいけないんですよ」(立石デパート商店会の組合会長・スナック知花子の知花子ママ)。

反対運動は起きないのかと思ってしまうが、呑んべ横丁はたったひとりの大家(地主)の所有なのだという。先代が最近、100歳で大往生を遂げたあとを継いだ2代目さんは、開発に合意した地権者らによる『立石駅北口地区再開発研究会』の会長をしているため、「売られる」ことは必至。交番裏の飲食街は地権が複雑なので、まずはこの横丁から開発が進んでいくらしい。

知花子ママによれば、「一昨年にあと5年、と言われたから、あと3年は大丈夫だと思うんですけど・・・」ということなので、2012年の予定が多少ずれたとしても、ここ2、3年で、「東京最後のションベン横丁」とも言うべき、立石の呑んべ横丁が消滅してしまうことは確実なようだ。あの、クルマやバイクどころか、自転車すら入りがたい細く入り組んだ路地も、強く叩いたら壊れてしまいそうなドアの店も、そしてもちろんやけに開放的な共同便所も、そのすべてが。

工事にゴーサインが出て、重機が入れば、こんな横丁が消え去るには数日間も要しないだろう。なくなってしまってから「行っとけばよかった!」などと嘆いても遅いだけ。懐かしくて、ちょっとツンとくる昭和の香りを思いきり嗅ぎに、いまのうちに通いつめておかないと。

来週は赤羽駅の東口あたりを飲み歩きます。


いくつかある横丁入口。いきなり昭和に逆戻り


北口でいちばん人気の『鳥房』脇を進めば横丁入口

反対側、モツ焼きの名店『江戸っ子』からも横丁に入れる

もともとは商店街だった名残が、横丁にはまだ残っている。
これは洋品店の看板。15、6年前までは営業していた


地元のヒーロー、内藤大助選手のプリントが夜風にはためいていた


火事が起きたらひとたまりもないから(それで新宿は
大きな被害を受けた)、各店の防火意識は高い

かつては1階を商店にし、2階に住むのが普通だった

最盛期には30軒以上を数えたが、いま横丁で営業している店は19軒。
しかしキャバレー時代のホステスさんが始めた店も多く、いまでは70歳以上、
年齢的な限界から閉める店が多くなっていった


横丁の特徴である共同便所。掃除が行き届いているのが、横丁結束の証である。
ただ、共同トイレならではの弊害もあり、用を足しに行ったように見せかけて、
飲み逃げする輩も昔はたくさんいたそう。わざとカウンターにタバコを置いたまま出たり、
スーツ姿にスニーカーを履いて、逃げやすいようにしていた男もいたらしい



今夜の飲み歩きは、まず呑んべ横丁の組合(立石デパート商店会)会長を務める知花子ママの『パブ&スナック知花子』。もともと韓国のひとが『枯葉』という店をやっていたのが、経営者がかわって『ハイビスカス』になり、辞めて空き店舗になっていたのを知花子ママが引き継いで『知花子』になったのが27年前。立石生まれ育ちのママは、子供のころから呑んべ横丁が遊び場。夕方になるときれいなお姉さんが行き来するのを「ホステスさんって言うのよ」と教えられ、憧れをいだいたそう。




線路沿いの入口近く、モダンな看板がよく目立つ


女性らしい優しさあふれる店内


「昔は焼酎なんて飲む客いなかったわ」とママ



お父さんは元海軍、しかし名刺の裏に「雀鬼」と入れるほど遊び好き・酒好きだったという家庭にお嬢様として育ち、「お酒なんて飲みに行く機会すらありませんでした」が、結婚して子育てするうちに、突然むしょうに水商売をやりたくなって、「主人は猛反対したけど、離婚覚悟で始めちゃったのよ!」。
開店当初は両親にも隠していたし、お客さんには「こんな景気が悪いときに、よく始めたもんだ」と言われたが、「もー、儲かっちゃって財布の口が閉まらない、スーパーの袋にお札詰めて帰ってましたよ」という盛況だったとか。いまは店を守りつつ、会長として大家さんとの交渉も続けている。再開発が始まったらどうするんですかとお聞きしたら、「子供3人に孫も3人いるし、もうお店はやらないでしょうねえ」と寂しいお答えでした。
知花子 葛飾区立石7-1-13




お客さんが描いてくれた、若き日のママのポートレート


「こういうの、みんなお客さんが持ってくるのよ、捨てられないでしょ」

知花子ママの前に組合会長を務め、現在は副会長兼会計係でもあるのが『しらかわ』の征子ママ。福島県白河市出身で、スナック知花子と同時期の27年前に店を出した。店の向かいにある共同便所横の、小さな店で最初は小料理屋としてスタートしたが、ほどなくいまの場所が空いて移転した。
スナックと言うより小料理屋という風情の店内は、L字型のカウンターが独特の気安さを醸し出す。あんまり居心地いいので、店の小上がりに寝かせてもらって翌朝そのまま出勤、なんてお客さんも昔はけっこういたらしい。






女性客も多い『しらかわ』。女性にモテること(行きやすいこと)が、
お店をうまくやるコツよ、と教えてくれた




歌の上手さから「立石のスーザン・ボイル」と評判の征子ママ。
高校時代はコーラス部に所属、「歌手なんて大げさな事なんて目指さなかったけれども、
観光ができて歌も歌えるバスガイドになりたかったの」






月下美人と写る、若き日のママ。「このあと、
茹でて酢の物にして食べちゃいました!」



「いちげんさんは、常連さんの始まりでしょ」と、だれでもわけへだてない接客が男性客だけでなく女性客も引きつける『しらかわ』。「もともとは主婦だったんですけど、夫が借金まみれでねー。朝の6時から借金取りにドアをドンドン叩かれる生活に、嫌気がさして離婚してから、子供3人育てるためにやむなくこの世界に入ったんですよ」という頑張り屋さん。でも再開発になったら、「どうすれば、いいんでしょうかねぇ。新しい場所を作ってもらって、そこで営業しろって言われても、70過ぎのお婆ちゃんが入ってどうなるのよって感じ」。そのとおりですよね!
しらかわ 葛飾区立石7-1-7






ものすごくリーズナブルな価格設定。焼きそばなど食べ物も絶品

呑んべ横丁には路地が2本ある。駅に近いほうはどちらかというと居酒屋が多く、前述の『知花子』や『しらかわ』があるほうがスナック街。しゃれたイラストが印象的な『伯爵』もその路地にあって、1967(昭和42)年オープン。おそらく呑んべ横丁最古の現役スナックだ。






白い壁、風格たっぷりの看板、すべてが昭和のオーラを放つ『伯爵』

「むかしコンテッサ(伯爵夫人)っていうクルマがあったでしょ、あれが好きだったから名前にしたの」という美都里ママは、福岡県大牟田市出身。中学生のころは走り高跳びの選手だったという陸上少女だったが、高校進学を断念して15歳で上京。町工場で働くうちに結婚、のちにスナック開店・・・そして今年で44年目。いまでは「この仕事が天職よ!」と明るい笑顔がかわいらしいママを慕って、男女の常連客、それに店を終わった横丁のママさんも飲みに来る。「立石じゃこの店しかないわよ!」というアダルト対応カラオケも完備しているので、お好きな方はぜひどうぞ。
伯爵 葛飾区立石7-1-13






一歩入れば超アットホームな空間。居心地よすぎて寝ちゃうお客さんも




とにかく元気な美都里ママ。焼酎は飲まない、
ウイスキーと日本酒だけ!だそうです




駅に近いほうの路地に、一見妖しげな赤紫のネオンが印象的な『BAR ニュー姫』。「學」と書いて「たか」と読ませる學ママが1970(昭和45)年、32歳で開いた老舗スナック。『伯爵』とともに呑んべ横丁最古参のひとつだろう。
『出没!アド街ック天国』(2回出演)や『5時に夢中!(「おママの花道」に出演して、マツコ・デラックスに絶賛されたそう)』、雑誌『東京人』、東京新聞など、メディアに登場する機会も多い學ママ。もはや「立石で『姫』を知らなかったらモグリでしょ」と言われるほどの生き字引だ。



呑んべ横丁きっての老舗スナック。
いつもは着物で接客する學(たか)ママ


石油ストーブが、酔客のこころとからだを暖めてくれる

店が終わったあとに飲みに来た、近所のママもご機嫌


レーザーディスク・カラオケも完備で、歌好きにはうれしいかぎり



ママが大好きな若き日の高倉健と市川雷蔵




店内に設けられたトイレは華やかなムード!

立石に生まれ育ったママは、「夫が遊び人で家にお金入れないから、生命保険や皿洗い掛け持ち、睡眠時間2時間で、ふたりの子供を育てたんです」。オデンの屋台を引いて借金を完済したあと、呑んべ横丁で水商売を始めたのが43年前。もともとはいまの店の2階で『姫』という店を開き、すすめられて1階の権利(居抜きの営業権)を200万円出して購入したが、すぐ返済できたそう。「そのころはこのとおりも酔っぱらいだらけで、肩と肩がぶつかって喧嘩、なんてのが日常茶飯事でしたから」というから、その当時が呑んべ横丁の最盛期だったのかもしれない。
店の外見は古いままでも、代(経営者)が代わっている場合が多い中で、『姫』のようにずーっとワンオーナーで続けてきたのは、ほんとうに珍しいケース。いまでもきちんと稼働するレーザーディスク・カラオケもあるので、飲んで歌って、立石の古き良き昔話もお願いしてみよう。
BAR ニュー姫 葛飾区立石7-1-6